『熊谷家伝記』(くまがいかでんき・くまがいけでんき)は、天竜川上流の信濃(長野)・三河(愛知)・遠江(静岡)の三国(三県)境地域の、中世(南北朝時代)の山村落形成から近世中期(1771年)に至る、山村落のほぼ編年的な記録。現在の長野県下伊那郡天龍村の坂部を開郷したとされる熊谷貞直
の子孫の十二代目、熊谷直遐(なおはる、なおよし)が、代々熊谷家当主が記録してきた記録を編纂。中世山村史研究の重要史料とされるだけでなく、柳田國男が評価する(柳田國男「東国古道記」1949)など、民俗学界でも著名。原本に、佐藤家蔵本と宮下家蔵本がある。佐藤家蔵本は、熊谷家の15代徳五郎 初代貞直記。 熊谷直重
目次
1 書誌
2 概要
2.1 一の巻
2.2 二の巻
2.3 三の巻
2.4 四の巻
2.5 五の巻
2.6 六の巻
2.7 七の巻
2.8 系譜
3 参考文献
書誌
概要
一の巻
ちなみに熊谷氏の家紋は一般に「寓生(ほや)に鳩」「鳩に寓生」であるが、貞直記では「蔦(つた)に鳩」と伝える。 二代直常記、三代直吉記、四代直勝記。 直常
二の巻
直吉は、左閑辺に移ったが、分内の風越山に金田法正が徒党を組んで侵入したので、合戦。その後和議を結び、法正にも分内を分与。村松氏らが太守と仰ぐ関氏初代、関盛春への服属勧誘を受けたが、拒絶し、戦って家来にせよ、と挑発し、郷内防衛に尽くしたところ、盛春は左閑辺に侵入しなかった。自領の自衛のみを考える「一騎立」としての立場を鮮明にしたといえる。
直勝は、熊谷山長楽寺を創建した。また関氏と敵対し続ける。関氏は下條氏と領地争いをし、戦国領主化していくが、中立を守る。 五代直光記。 「一騎立」であった熊谷氏が関氏4代目の関盛常
三の巻
直光が属する関氏が和知野川の戦いで下條氏を破る。
関氏5代目国盛が、傲慢となり、領内郷主が離反して謀反を起こし、関氏は滅亡。関氏領は下條氏に服属した。しかし基本的にまだ自衛的武力行使の段階。武田信玄に下條氏が服したのに伴い、下條氏を通じて武田氏に臣従する。 六代直定記。 下條氏の配下にあった熊谷氏が、武田側の軍役要求に対し、遠国遠征の意義を見出せず、物納により、軍役免除。これにより、農家専業となる。兵農分離の一例。武田氏、豊臣氏による検地についての記述がある。 直定 七代直隆記。 知久氏の知久頼氏
四の巻
五の巻
また幕藩体制成立期に直隆は、名主職を得るが、家来・被官百姓が本百姓として独立する過程が記されている。 八代直祐
六の巻
村役人を熊谷家以外のものが占めるようになり、それに従い熊谷家を軽んずる傾向が徐々に強まり、また熊谷家自体も没落していく。
火事が起こり、館を再建する借金の担保に大角家に、熊谷家の家宝の代々の記録を譲る。 十二代直遐記。 大角久之丞
七の巻
それにより、熊谷家が幕藩体制成立期に有していた諸権利の存在を発見し、それらを復活させ、村民にも認めさせる。
系譜(三河熊谷氏祖)━女(常盤:新田義貞室)━貞直(信州坂部熊谷氏祖)
参考文献
市村咸人編『熊谷家伝記』(伊那史料叢書、1933)、(国書刊行会、1974)
山崎一司編『熊谷家伝記』(愛知県富山村教育委員会、1989)
滝澤貞夫監修 信州大学教育学部附属長野中学校編『現代口語訳 古典読み物叢書14 熊谷家伝記』(信州教育出版)
竹内利実『「熊谷家伝記」の村々』(御茶ノ水書房、1978)
榊原和夫『落人の道?下伊那のかくれ里』(誠文堂新光社、1984)
鈴木国弘「東国山間村落の開発と『縁者』の世界?『熊谷家伝記』の検討?」(日本大学文理学部人文科学研究所紀要38号、1989) ⇒http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/38/H-038-001.pdf
山崎一司『「熊谷家伝記」のふるさと』(愛知県富山村教育委員会、1992)
笹本正治『天竜川の淵伝説―「熊谷家伝記」を中心に―』(建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所、1992年)https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/handle/10091/10174
米家泰作「『熊谷家伝記』による開発定住と空間占有」(『史林』80-1、1997年)(米家泰作『中・近世山村の景観と構造』校倉書房、2002所収)
米家泰作『日本・中近世山村の歴史地理学的研究』(1997年) ⇒http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/64977/1/D_Komeie_Taisaku.pdf
笹本正治「山に生きる―山村史の多様性を求めて―」(『史林』86-1、2003年)
更新日時:2016年5月20日(金)21:35
取得日時:2018/07/23 23:41