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日本の政治家熊田 裕通くまだ ひろみち
公式肖像写真(2020年公表)
生年月日 (1964-08-28) 1964年8月28日(59歳)
出生地 日本 愛知県名古屋市西区
出身校神奈川大学法学部卒業
前職海部俊樹議員秘書
愛知県議会議員
現職衆議院議員
所属政党(新進党→)
自由民主党(山東派→菅義偉G)
称号法学士(神奈川大学・1988年)
公式サイトくまだ裕通 公式サイト 自民党 衆議院 愛知第一区支部長(名古屋市東区、北区、西区、中区)
熊田 裕通(くまだ ひろみち、1964年8月28日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。
海部俊樹元内閣総理大臣の秘書、愛知県議会議員(5期)、愛知県議会議会運営委員長、愛知県議会警察委員長、名古屋競輪組合議会議長防衛大臣政務官、総務副大臣などを歴任した。 愛知県名古屋市西区生まれ[2]。名古屋市立庄内小学校を経て、名古屋市立名塚中学校を卒業した[3]。小学4年生のとき、ロッキード事件にからんで国会の様子をテレビで観たことをきっかけに、国会議員を志す[4]。父が衆議院議員の海部俊樹の熱心な支持者であったこともあり、このころ海部と面識を持つ[4]。 愛知高等学校卒業後、神奈川大学法学部法律学科に進学した[3]。キャンパス内の学生運動が「時代遅れ」「上滑り」だとして、運動家に議論を吹っかけたり、卵を投げつけたりした[5]。 1988年3月、神奈川大学を卒業[3]。同年4月、海部の秘書となる[6]。 1989年7月24日、宇野宗佑首相が参院選惨敗の責任をとり辞意を表明。自民党最大派閥の竹下派は自派候補の擁立を見送り、河本派の海部俊樹を担ぐ道を選ぶ[7]。同年8月8日に行われた自民党総裁選挙で海部が新総裁に当選し、第1次海部内閣が発足したことに伴い、熊田は総理大臣公邸に常駐することになった[8]。 地元の名古屋市西区選出の愛知県議会議員は吉岡よしき(社会党)、古橋利夫(自民党)、山内清(自民党)の3人で議席が占められていたが[9]、古橋が任期中の1991年12月6日に死去。すぐさま、熊田を古橋の後継に推す嘆願書が海部のもとへ届けられた。そこから署名運動まで起こり、約5千人の署名が集まった[10][11]。当該署名者を対象に戸別訪問を始めるが、当初の反応は冷たいものだったという[11]。 1993年12月、秘書を退職[6]。 1994年6月の首班指名に際して、海部は自民党を離党。同年12月10日には新進党を結党した。これに追随し、1995年4月の愛知県議会議員選挙・名古屋市西区選挙区には新進党公認・公明党推薦で立候補した。同選挙区は定数が3から2に削減されたため激戦が予想されたが、熊田は初出馬ながら1位当選。吉岡よしきは2位で当選し、自民党現職の山内清は落選した[12][6][11]。 1999年4月の愛知県議会議員選挙から自民党の公認を受けた。愛知県議会議員団の政務調査会長、副団長、副幹事長などを歴任した[13]。また、議会運営委員長や警察委員長などを務めるとともに、一部事務組合である名古屋競輪組合が設置する議会においては議長を務めた[14]。2011年、5期目の当選を果たす。 2012年11月、愛知県議会議員を辞職[6]。同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙に愛知1区から立候補し初当選した[1]。民主党から日本未来の党に移った佐藤夕子、比例東海ブロックから国替えした民主党の吉田統彦の両候補は票を食い合い、比例復活もかなわなかった。小選挙区制度への移行後、愛知1区では自由民主党初の選挙区当選だった[15]。 2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では、民主党の吉田、減税日本の新人ら5名の候補者を破り再選[16]。
来歴
生い立ち
政治家として