熊田 千佳慕
1936年 (昭和11年) 頃、熊田の自宅にて (土門拳撮影)
本名熊田 五郎
誕生日1911年7月21日
出生地神奈川県横浜市
死没年 (2009-08-13) 2009年8月13日(98歳没)
国籍 日本
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熊田 千佳慕(くまだ ちかぼ、1911年(明治44年)7月21日 - 2009年(平成21年)8月13日)は、日本のグラフィックデザイナー、絵本画家、挿絵画家、童画家。本名は、熊田 五郎(くまだ ごろう)[1]。
経歴は開港派の詩人。1917年(大正6年)、横浜市立尋常小学校に入学[2]。1923年(大正12年)、関東大震災で被災したため生麦に転居、鶴見町立鶴見小学校に転入する[2]。1924年(大正13年)、神奈川県立工業学校図案科に進学、在学中は博物学教諭の宮代周輔に影響を受ける[2]。またシュールレアリスムに傾倒し、前衛的な金工作家の高村豊周に憧れるようになる[3]。1929年(昭和4年)には東京美術学校鋳造科に入学[2]。1934年(昭和9年)には兄・精華の親友であった山名文夫に師事し[4]、同年9月には名取洋之助の日本工房(第2次)に入社する[2]。『NIPPON』11号 (1937年5月17日発行、表紙構成:熊田五郎)
日本工房では山名の弟子として、グラフ誌『NIPPON』のグラフィックデザイン、レイアウト等を担当する。山名が日本工房を退社(資生堂に復帰)した1936年(昭和11年)以降は、東京高等工芸学校出身の藤本東五とともに『NIPPON』誌制作に携わった。表紙こそ1936年の『NIPPON』日本語版(1936年12月)と11号(1937年5月)の2号のみであるが、1936年から1937年の2年間は土門拳とコンビを組んで『NIPPON』のほとんどのレイアウトを手がけている。土門の出世作となった『NIPPON』8号の「伊豆の週末」、9号の「日本の水兵」などは、いずれも熊田のレイアウトの代表作でもある。1937年(昭和12年)10月以降、日本工房は河野鷹思・亀倉雄策らが本格的にデザインに加わり、熊田は折り本『日本』の制作を自宅で手がけるようになる。しかし、完成を見た翌年3月頃よりのちは体調を崩し、以降、日本工房の仕事はあまり行わなかった。1939年(昭和14年)末には日本工房を退社。
なお、近年広く知られるようになった早稲田大学の1936年度と1937年度の卒業アルバムも、写真が土門、レイアウトが熊田によるもので、日本工房の平和な時代を象徴するとともに、土門と熊田の親しい関係を示すものとして興味深い(朝日新聞2006年3月28日および朝日新聞〈夕刊〉2006年5月29日参照)。早稲田以外にも、日本工房では1936年と1937年に東京女子高等師範学校(現・お茶の水大学)と慶應義塾大学の卒業アルバムが作られたようであるが、現物が確認できるものは少ない。
1941年(昭和16年)7月に応召するが病気のため9月には除隊[2]。1943年(昭和18年)には神奈川県立工業学校の同級生であった高橋錦吉の薦めで日本写真工芸社に入社している。1945年(昭和20年)に結婚するが、その8日後には横浜大空襲で父親を失う[3]。
第二次世界大戦後は、1949年(昭和24年)のカネボウ退社ののち、挿絵や絵本のための画家に転身して活躍する[2]。