熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石(細川家の時代に、八代領と両支藩を分封ののち高直しで54万石)。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。熊本藩細川家は肥後一円を領有していないが、国持ち大名(大身国持)とされた。 戦国大名となった各氏(菊池氏、阿蘇氏、相良氏)は、北部、中部、南部と各々に拠点を構えて、ほぼ平穏な戦国前期を送っていた。 やがて菊池氏は阿蘇氏に飲み込まれる形となったが、阿蘇氏も身内の後継争い・内紛を繰り返し、最終的には豊後国の大友氏によって旧菊池領は平定され、阿蘇氏もその影響下に入った。 南で鹿児島・島津などの盾となっていた相良氏だったが、鉄砲伝来後、近代兵器を持った島津軍になすすべなく降伏した。阿蘇氏も島津軍に次々と城を落とされ滅亡した(島津氏の九州平定)。九州平定の寸前で島津軍は、大分・大友の要請により挙兵した豊臣秀吉の大軍に敗れ、肥後を放棄した(秀吉の九州平定)。 豊臣秀吉より富山城を召し上げられ、大坂に留めおかれていた佐々成政に、九州国分で肥後の統治が命じられた。しかし佐々は改革を急ぐあまり反感を買い、肥後国人一揆が起きた。秀吉は、加藤清正・小西行長に鎮圧を命じ、一揆は終息した。佐々は責任を取らされて自害させられた。肥後を平定した両者は、肥後の所領を与えられ、加藤は主に北部、小西は中南部を所領にした。 慶長5年(1600年)、肥後南部24万石を領していた宇土城主小西行長は西軍につき、関ヶ原の戦いで西軍の敗将となり斬首、改易となった。 肥後北部25万石を領有していた隈本城主加藤清正は、関ヶ原の戦いの戦功により小西行長の旧領を獲得し、また豊後国内にも鶴崎など2万石を加増され、52万石を領したことにより熊本藩が成立した。 清正は日本三名城に数えられる熊本城を築いた。ちなみに「隈本」を「熊本」と改めたのも清正である。また、城下町や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図り、統治を安定させた。土木建設に力を注ぎ、領内基盤整備の礎を築いた「清正公さん」(きよまさこう)の人気は、今日の熊本においても非常に高い。 その一方で、近年の加藤清正研究では、朝鮮出兵に対応するために作られた動員・徴税体制や、重臣たちを支城主にして大きな権限を与える仕組みが百姓に重みになってのしかかり、さらに関ヶ原の戦いやその後の天下普請などに備えるためこの体制が解消されることなく継承され、農村の疲弊や重臣たちの権力争いの原因となったことなど、清正治世の問題点も指摘し始めている[1]。 加藤家2代・忠広は、寛永9年(1632年)、駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流となり、加藤家は断絶した[2]。 同年、豊前国小倉藩より細川忠利が入封し、肥後一国と豊後国のうち鶴崎2万石、計54万石を領した[2]。以後、廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入部に際しては、人気のあった加藤清正の統治を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという。 細川家は、手永(てなが)という独自の地方行政制度を敷いた。年貢は概ね五公五民で惣庄屋(そうじょうや)と呼ばれるその手永の長が「改帳(あらためちょう)」を記録している(惣庄屋としては天保の大飢饉に活躍した「矢部手永」の布田保之助が知られる)。 この手永制度により農民への締め付けは厳しく、『永青文庫』の『松井家文書』などによると江戸時代を通じて80余件(加藤家2件・細川家82件)の百姓一揆が発生した[3]。82件は全国的に見ても多発地(島原の乱の天草を持つ唐津藩より多い)になる(全国で3000件余なので大小名を勘考しない単純計算でも、三百諸侯で割ると各藩の平均は10件)[4]。 一揆の代表例を挙げる。 ほか多数 また、光尚・綱利・宣紀・宗孝・治年の代には阿部一族の反乱・暴動・直訴(イナゴ飢饉)・打ちこわし(米価高騰による)・騒動(銀札の失敗による御銀所騒動)が起きている。 熊本藩には上卿三家といわれる世襲家老がおかれた。松井氏(歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田(こめだ)氏(細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏の三家で、いずれも藤孝時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝 忠利は晩年の宮本武蔵を迎え入れ、島原の乱で活躍した。忠利死去の2年後の寛永20年(1643年)、忠利への殉死をめぐり反乱が起きた(森?外の「阿部一族」のモデルとなる)。2代光尚は7歳の綱利を残して早死したので御家断絶の危機があったが、無事に綱利が家督を継いだ。 3代綱利の時に、大石良雄ら赤穂義士17人を白金の屋敷に預かり、切腹を任された。綱利は「赤穂義士は細川家の守り神である」とし、遺髪を分けて頂き切腹場所に墓や供養塔を建てた。享保7年(1722年)からは連年のように天災が起こり、享保17年(1732年)には、凶作で餓死者が6000人近くも出たと言われている。しかも同年、熊本藩は幕命によって利根川普請で15万両の支出負担を担い、藩財政は破綻寸前となった。延享2年(1745年)に火災でこの白金下屋敷が火災で焼失した。また綱利の子孫が早世し、血脈は全滅した。 藩財政は江戸初期から火の車であり、綱利のように力士を大勢召し抱える武断派の藩主が出て無駄な浪費を重ねた。正徳2年(1712年)には37万両余の借金があり、商人からの公訴がおきている。藩は江戸・大坂の大商人からの多額の借金を何度も踏み倒しており、大商人たちからは貧乏細川と嫌われたという[注釈 1]。4代宣紀は大坂の豪商・鴻池家に借金を断られた[7]。「細川九曜」紋 5代宗孝は延享4年(1747年)江戸城中で乱心した旗本・板倉勝該に斬られて死去した。
歴史加藤清正公像。熊本城の入口の一つである御幸橋のそばにある。
前史
戦国期:菊池氏、阿蘇氏、相良氏の分割統治
豊臣政権期:佐々成政の統治、加藤・小西の二分統治
加藤家の統治
細川家の統治
延宝2年(1674年)、手永仏原村一揆 - 手永制への不満。53人捕縛(うち13人死罪)[5]
延宝5年(1677年)、下千田村一揆 - 強引な年貢取り立てに抵抗。17人が走り百姓(逃散先の記入なし)。
貞享2年(1685年)、五家荘騒動 - 細川綱利と五家荘大地主・左座一族との紛争。幕府は五家荘を天領とする(無高のため朱印高54万石に変化なし)[6]。
元禄16年(1703年)、広瀬古閑一揆 - 庄屋排斥と分村により細川治世の廃止と天領編入を要求。28人捕縛(うち1人牢死)
宝永2年(1707年)、阿蘇一揆 - 年貢納入後の百姓分からも追加取り上げに抗議。30人が他領(日向国高千穂)に走り百姓。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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