熊本県立熊本高等学校
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熊本県立熊本高等学校

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度47分58.9秒 東経130度43分46.6秒 / 北緯32.799694度 東経130.729611度 / 32.799694; 130.729611座標: 北緯32度47分58.9秒 東経130度43分46.6秒 / 北緯32.799694度 東経130.729611度 / 32.799694; 130.729611
過去の名称熊本県中学第二済々黌
熊本県熊本中学校
熊本県立熊本中学校
国公私立の別公立学校
設置者 熊本県
校訓士君子
設立年月日1900年
創立記念日10月30日
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期2学期制
学校コードD143210000023
高校コード43102J
所在地862-0972
熊本県熊本市中央区新大江1-8
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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熊本県立熊本高等学校(くまもとけんりつ くまもとこうとうがっこう, : Kumamoto Prefectural Kumamoto High School)は、熊本県熊本市中央区新大江一丁目にある公立高等学校。略称は「熊高」(正式にはクマコウ、一般には熊工こと熊本工業高校との区別のためクマタカと呼ばれる)。
概要
歴史
1900年明治33年)に熊本県中学済々黌より分離開校した熊本県中学第二済々黌を前身として創立。2020年令和2年)に創立120周年を迎えた。
建学の精神・校風
「士君子」[1] たるの修養を目標とし、徳性、智能、体力ともにすぐれた人物の養成を図る。「士君子」とは、熊中末期の戦時中には、“士=さむらい”と解されていたが、現在の熊高では、「国際社会にリーダーシップを発揮する能力と異質な文化に対する柔軟な心を備え、いついかなる時も品位ある態度を堅持することのできる人間」のことを指す。現在は、同校教育が目指す人物像を"スクール・アイデンティティ"として「深い自己理解のもと、個性を生かし、社会に積極的に関わっていく、自立した個人」と明示している。
校訓
凡ソ本校ノ生徒タル者ハ誠實心ヲ秉リ礼敬身ヲ持シ 善ヲ爲スニ勇ニ 過ヲ改ムルニ敏ニ 己ニ克チ慾ヲ制シ 身體ヲ錬磨シ艱苦ニ耐忍シ專ラ修學ニ勤メ 敢テ小成ニ安ンスルコトナク 日夜淬砺シテ士君子タルノ修養ヲ完ウシ國家ノ忠良タルコトヲ期スヘシ 此志ヲ堅持シテ移ラサル之ヲ立志ト請ヒ 此志ヲ実行シテ倦マサル之ヲ篤行ト請フ 諸子其レ立志篤行 以テ本校ヘ育ノ主旨ニ副ヘヨ
校章
1903年(明治36年)に制定。三つ葉銀杏を背景に、旧制中学校時代は「中」の文字を、新制高等学校になってからは「高」の文字を置く[2]。銀杏をモチーフに用いたのは、初代校長の野田寛が、大和魂を象徴する桜に対して銀杏を「肥後魂」の象徴としたことに由来する。
校歌
旧制熊本中学校時代の1910年(明治43年)に創立10周年を記念して制定。 作詞は池辺義象京都帝国大学講師)、作曲は岡野貞一東京音楽学校(現・東京芸術大学助教授)によるもの。新制高等学校発足後も継承された。
日課
1校時を65分間としている。月・水・金曜日は各65分間の5時限授業。火曜日は6時限授業。木曜日は5時限授業の後に50分のLHR(ロングホームルーム)。
制服
男子は一般的な黒の詰襟学生服で、両袖口に1本の白線を織り込んだ黒地の蛇腹織リボンが縫い付けてある。女子の制服は、上下とも紺色のセパレートタイプのブレザー(イートンジャケット)で、スカートには同校の校章を模したバックルを有するベルトが付属する。
交流
1996年(平成8年)からイギリスパブリックスクールであるイートン・カレッジと定期的な交流を行っている。毎年、生徒から希望者を募り、夏季休暇中に3週間ほどカレッジ内に滞在させ、地元学生との交流[3] を図っている。同校ではこの行事を「イートン校サマースクール」と称している。かかる費用は、平成22年度は約60万円ほどである。また、1999年(平成11年)より、熊本県立済々黌高等学校との間で年に1度の野球対抗戦が行われている。
同窓会
同窓会の名称は「江原会(コウゲンカイ)」と呼ばれる。名称は「大江源頭」に因む。県外への進学者も多いことから、東京東海関西福岡などに地区江原会、また、熊本地区の青年に限定した江原会として「青年江原会」もある。
沿革

熊本県立熊本中学校(旧制中学校、1879年(明治12年)- 1888年(明治21年))、熊本県立済々黌高等学校#沿革も参考。

1900年(明治33年)

4月1日 - 熊本県中学済々黌より熊本県中学第二済々黌として分離される。定員は600名と定められる。

6月 - 野田寛、初代黌長に就任[4]


1900年(明治33年)12月 - 済々黌が県費支弁校となり、「熊本県熊本中学校」と改称。

1901年(明治34年)6月 - 「熊本県立熊本中学校」と改称。補習科を設置。

1903年(明治36年)

4月 - 玉名郡弥富村に、熊本中学校玉名分校として分校を設置。

制服・制帽を改定。徽章を三つ葉銀杏に改める。


1904年(明治37年)10月 - 飽託郡大江村(現在の熊本市中央区新大江)に新校舎が完成し、移転。

1906年(明治39年)- 玉名分校が分離し、熊本県立玉名中学校[5] として独立。

1909年(明治42年)4月 - 校訓を制定し「士君子教育」を提唱。英国の男子全寮制パブリックスクールの教育理念を導入。

1910年(明治43年)10月 - 創立10周年記念式典を挙行。校歌を制定。

1912年大正元年)11月 - 講堂が完成。

1923年大正12年)1月 - 学生自治の気風を養成するために学級会が組織される。

1925年大正15年)3月 - 野田寛校長退任。

1927年昭和2年)6月 - 福田源蔵校長着任。

1928年昭和3年)4月 - 定員1000名となる。

1939年昭和14年)12月 - 2階建て170坪の新校舎落成。

1944年(昭和19年)

6月 - 鹿屋飛行場への動員が始まる。

9月 - 学徒動員令により、健軍町三菱重工飛行場への動員が始まる。


1945年(昭和20年)

7月1日 - 熊本大空襲により図書館を残し、校舎が全焼。

9月 - 大江校・出水校を借用。

11月 - 旧十六部隊跡兵舎を仮校舎に授業を再開。(1954年(昭和29年)9月まで続く。)


1947年(昭和22年)4月 - 学制改革時の暫定措置として、併設中学校を設置し、旧制中学校の2・3年生を収容。(旧制中学校は廃止、新制中学校が発足。)

1948年(昭和23年)

4月 - 学制改革により、「熊本県立熊本高等学校」(男子校)と改称。旧制中学校4・5年生と卒業生希望者を収容。

5月 - 「熊高学苑新聞」創刊。

6月 - 定時制が発足。


1949年(昭和24年)

3月 - 併設中学校を廃止。

4月 - 新学区制導入により男女共学となる。初の女子生徒8名が入学。

9月 - 熊本県立第一高等学校より定時制が移管・統合される。


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