熊本バンド(くまもとバンド)は、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のこと[1]。直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いた。 これは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つである[2]。花岡山バンドともいう。花岡山山頂には、熊本バンド結成の地として、昭和40年に記念碑が建てられた。これは、奉教の碑と呼ばれている。なお、毎年1月30日には、熊本バンド結成を記念して記念早天祈祷会が開かれている。 1871年熊本洋学校が設立された。招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズ宅で聖書研究会に連なり奉教の決意をした。彼らの、信仰と情熱が青年達を動かし、多数の入信者を産んだ。特に、1875年11月以降に祈祷会の熱が高まる[注釈 1]。ジェーンズは平信徒であったので、長崎在住のヘンリー・スタウト宣教師と相談の上、洗礼の礼典を行った。ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制の解体で忠誠の対象を失った青年達に、新しい目標を与えた。1876年(明治9年)1月30日[4](29日説もある[5])、洋学校の生徒35名は熊本城外花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約した[2]。こうした契約によって結ばれた人々をバンドと称した。この趣意書は「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。」[2]とあるように、個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教と国家との関係を意識した宗教国家樹立を宣言[2]したものであった。 洋学校は1876年に閉鎖されたが、宮川経輝、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰ら青年達の多くは、新設間もない同志社英学校に転校し、同志社の大きな位置を占めるようになっていく。 熊本バンドは、ジョーンズの影響により、リベラル(自由主義神学)で、国家主義的であった。彼らは1880年代にドイツから流入してきたリベラル神学の影響を受け、日本組合基督教会の教職者になったので、日本の会衆派教会はリベラルが主流派になった[6]。 熊本バンド出身者は後に牧師、教職、官公吏、政治家などになった。また、日本のYMCA設立にも関与し、小崎弘道は1880年(明治13年)設立の東京YMCA初代会長に就任した。彼はYMCAの日本語訳を考える際に中国の『史書』にある「青雲の志」から「青年」という呼称を生み出した。また、原田助も1886年(明治19年)に神戸YMCA会長に就いている[7]。
概要
歴史熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズ熊本バンドが結成された花岡山日本組合基督教会の熊本バンド出身者(1892年、前列左端から下村孝太郎、市原盛宏、小崎弘道、宮川経輝、後列左端から海老名弾正、横井時雄、不破唯次郎、森田久萬人)[3]
1965年(昭和40年)11月6日、花岡山で「熊本バンド奉教之碑」の除幕式が行われた[9]。