熊井啓
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くまい けい
熊井 啓
キネマ旬報』1966年2月決算特別号より。
生年月日 (1930-06-01) 1930年6月1日
没年月日 (2007-05-23) 2007年5月23日(76歳没)
出生地 日本長野県南安曇郡豊科町
(現:安曇野市
職業映画監督脚本家
ジャンル映画
活動期間1954年 - 2007年
配偶者熊井明子
主な作品
黒部の太陽
サンダカン八番娼館 望郷
海と毒薬
千利休 本覺坊遺文

 受賞
ヴェネツィア国際映画祭
銀獅子賞
1989年千利休 本覺坊遺文
ベルリン国際映画祭
銀熊賞(審査員特別賞)
1986年海と毒薬
功労賞
2001年
日本アカデミー賞
特別企画賞
1986年海と毒薬
会長特別賞
2008年
ブルーリボン賞


監督賞

1986年海と毒薬

新人監督賞

1965年日本列島

その他の賞
日本映画監督協会新人賞
1965年日本列島シカゴ国際映画祭
銀賞
1989年『千利休 本覺坊遺文』アジア太平洋映画祭
最優秀作品賞
1974年サンダカン八番娼館 望郷芸術選奨文部大臣賞
1972年『忍ぶ川』1995年 紫綬褒章
2003年 勲四等旭日小綬章

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熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本映画監督。妻はエッセイストポプリ研究家の熊井明子。多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。
経歴・人物キネマ旬報社『キネマ旬報』第407号(1966年)より

長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ[1]。田町小学校[1]、県立松本中学校(現長野県松本深志高等学校[1]松本高等学校 (旧制)[1]から学制改革により信州大学文理学部卒業[1]。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児田坂具隆阿部豊牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。

1962年に明子夫人と結婚。1964年帝銀事件について、綿密な調査と考証をもとに被疑者であった平沢貞通画伯を無罪とする立場から事件経過をドキュメンタリー・タッチで描いた『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー(脚本も務めている)。監督2作目の『日本列島』では、戦後の日本で起こった謎の多い諸事件を米国の謀略と関連付けて追及し、日本映画監督協会新人賞を受賞。骨太の社会派監督として注目されるようになった。

1968年には、三船プロダクション石原プロモーションが共同制作した大作『黒部の太陽』の監督に抜擢され、当時の映画界に厳然として存在していた五社協定の圧力にも負けず、三船敏郎石原裕次郎佐野周二滝沢修高峰三枝子ら豪華なスター共演によって黒四ダムの建設を見事に描き、成功を収める。1969年日活を退社し、退職金を投入して『地の群れ』を製作。以後フリーの映画監督として活躍し、三浦哲郎原作の芥川賞受賞作を白黒で美しく撮影した『忍ぶ川』(1972年)でキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。

1974年に、東南アジアに娼婦として売られた「からゆきさん」に題材をとった田中絹代出演『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭銀熊賞キネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞ノミネートなど、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させ、海外からも高い評価を得た。なおこの時期、吉永小百合の母・和枝の面前で泥酔して暴れ、和枝の著書『母だから女だから』(立風書房1976年)において名指しで痛烈に批判された。

その後も初の時代劇『お吟さま』(今東光原作)、戦後の日本映画で初の中国ロケを敢行した『天平の甍』(井上靖原作)などを経て、1986年には戦時中に九州で起きた米軍捕虜生体解剖事件をもとに医師の戦争責任を問うた遠藤周作原作の『海と毒薬』を発表し、ベルリン国際映画祭銀熊賞 (審査員グランプリ)毎日映画コンクール大賞、3度目のキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受けるなど国内外で評価された。

社会性の強いテーマを内包した作品を制作し、独自な世界観を確立、昭和を代表する社会派映画監督として知られた。1989年、三船敏郎出演の『千利休 本覚坊遺文』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。


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