煬帝
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世祖 楊広

第2代皇帝

王朝隋
在位期間仁寿4年7月21日 - 大業14年3月11日
604年8月21日 - 618年4月11日
都城大興城(長安)→江都
姓・諱楊広
諡号明皇帝(楊?より)
煬皇帝(李淵より)
閔皇帝(竇建徳より)
廟号世祖(楊?より)
生年天和4年(569年
没年大業14年3月11日
618年4月11日
楊堅(第2子)
独孤皇后
后妃蕭皇后
陵墓雷塘
年号大業 : 605年 - 618年

煬帝(ようだい 北周天和四年(569年) - 隋大業十四年(618年))は、中国の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。姓は楊、は広。煬は唐から贈られたであり、「色を好んで礼を無視した、礼に背き人民から嫌われたもの、天に逆らい人民を搾取したもの」という意味がある[1]

中国史を代表する暴君とされる[2][3]

煬帝は本来なら漢音で「ようてい」と読むところを呉音で「ようだい」と読むことが慣例となっている[4]。わざわざ「だい」と読むのは暴君であることを強調するためであると思われる[5][6][注釈 1]
生涯
即位まで

楊堅・母独孤伽羅夫婦の次男として生まれる。父楊堅は北周十二大将軍の一人楊忠の息子で[8]、母独孤伽羅は八柱国の一人独孤信の七女である[9][10]。 (大将軍・柱国については武川鎮軍閥を参照のこと)。 独孤伽羅は貞節観念・嫉妬心が強く、この時代の貴族としては珍しく一夫一妻を貫き、妾を置かせなかった[8][11]。二人は五男五女を儲け、長女が北周武帝の皇太子宇文贇の妃となった[8][12]

武帝が崩御して宇文贇(宣帝)が皇帝になるも23歳という若さで崩御して8歳の静帝が後継となる[注釈 2]外戚として発言力を増した楊堅は581年に静帝から禅譲を受けて隋を建てた(以下、楊堅を文帝と呼び替える。)[15]。なお後に静帝および北周皇族の宇文氏は皆殺しの目にあった[16]

楊広は隋建国と同時に十三歳にして晋王に封ぜられる[17]。更に588年から始まった征伐の総司令官となり、陳を滅ぼした(実際の総指揮は重臣の高?がとった。)[18][19]

陳討伐の武勲を挙げた楊広は、兄楊勇から皇太子の座を奪わんと画策した。先述の通り独孤皇后は貞節観念が強く、文帝は奢侈を好まなかった。しかし楊勇は正妻をないがしろにして妾を寵愛したために皇后の不興を買い、文帝の方も皇后の言葉を受けて次第に勇を疎むようになった。対して楊広の方は正妻の蕭氏以外は女性を近づけず、家の調度品も質素なものにしていた。実際にはそれは擬態であって蕭氏以外の女性に出来た子は秘密裏に処理され、文帝たちがやって来たときだけ豪華な調度品を隠していただけであった[20]

文帝は開皇二十年(600年)に楊勇を廃して庶人に落とし、楊広を皇太子に建てた[21]。2年後の仁寿二年(602年)に独孤皇后が崩御[22]。文帝もまたその2年後の仁寿四年(604年)に崩御し、楊広が帝位を継いだ[23]

隋書』「文帝本紀」では、文帝の死は病死であり、死の床で皇太子・大臣たちに別れの言葉を述べて崩御したとある[24]。しかし同じ『隋書』の「后妃伝」では楊広が文帝の寵姫陳氏に関係を迫り、激怒した文帝が楊広を廃嫡しようとした所、楊広側が先んじて文帝を監禁して弑逆されたという話を載せている[25]。弑逆説の方が話としては面白いので、後世の史書及び一般ではこちらが通用している[26]

帝位に就いた楊広(以下、楊広を煬帝と呼び替える)がまずやったことは楊素の弟楊約に庶人とされていた廃太子楊勇を殺させることであった[23]。更に末弟の漢王楊諒が反乱を起こしたのでこれを制圧して捕らえ、死ぬまで幽閉した[27]。兄弟のうち、三男の秦王楊俊は過度の奢侈により文帝の不興を買って庶人に落とされ、さらに嫉妬した王妃により毒を盛られて病死した[28]。四男蜀王の楊秀もまた煬帝の策略により文帝の不興を買って庶人に落とされて宮中に拘禁されていた[29]

文帝はかつて「自分の子は全て同母である」と誇っており[30]、この一家が仲良く暮らしていくことを熱望していたが[11]、現実はこのような有様であった。そもそも文帝自身が自らの兄弟と仲違いしていたにもかかわらず、自分の息子達には仲良くしろと口で言ってもそれは無理というものであった[31]
皇帝として
大運河

煬帝の政策として挙げられる最大のものが何といっても大運河の開削である。

文帝時代の開皇四年(584年)に大興城(長安)と洛陽を結ぶ広通渠を開削[32][33]、さらに開皇七年(587年)に陳征伐のために淮水長江を繋ぐ?江(山陽?)を開削した[34][35]。煬帝はこれに続けて即位の翌年大業元年(605年)に百余万人を徴して黄河と淮水を繋ぐ通済渠[36][37]、大業四年(608年)には黄河と?郡(現北京)を繋ぐ永済渠が完成[38]。この工事には女性まで徴発された[38]。そして大業六年(610年)に長江と浙江を繋ぐ江南河が完成し[39][38]、南の江南から北の洛陽・長安を繋ぐ総延長1500kmに及ぶ大運河が完成した[40][38]

運河の中で流れが無い箇所では人力で引っ張る必要があったので、運河と並行して御道という道路が設けられた[36]。また運河の路線には40余りの離宮が設けられていた[36]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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