照國万藏
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照國 萬藏

照國萬藏(1943年頃)
基礎情報
四股名照國 万藏 → 照國 萬藏 → 照國 万藏
本名大野 萬藏(旧姓:菅)
愛称桜色(桃色)の音楽[1][2]
薔薇色の交響詩[2]
白い殿堂
動く錦絵
生年月日1919年1月10日
没年月日 (1977-03-20) 1977年3月20日(58歳没)
出身秋田県雄勝郡秋ノ宮村
(現:秋田県湯沢市)
身長173cm
体重161kg
BMI53.8
所属部屋伊勢ヶ濱部屋
得意技左四つ、寄り、吊り
成績
現在の番付引退
最高位第38代横綱
生涯戦歴318勝112敗74休(41場所)
幕内戦歴271勝91敗74休(32場所)
優勝幕内最高優勝2回
十両優勝1回
幕下優勝1回
データ
初土俵1935年1月場所[1]
入幕1939年5月場所[1]
引退1953年1月場所[1]
備考
金星1個(男女ノ川1個)
2019年7月13日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

照國 萬藏(てるくに まんぞう、1919年1月10日 - 1977年3月20日)は、秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現:秋田県湯沢市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。第38代横綱。本名は菅 萬藏(すが まんぞう)で、のちに大野 萬蔵(おおの まんぞう)となる[1]
来歴
秋田の怪童、入門

1919年1月10日秋田県雄勝郡秋ノ宮村の農家で生まれ、秋ノ宮第一尋常小学校を卒業後は家業である農業を手伝う。畑作業で土を掘ったり、収穫した野菜などを運搬するうちに力が付き、1930年の夏に「秋田に怪童あり」との評判を聞きつけた母の遠縁である5代伊勢ヶ濱から熱心に勧誘されたが、入門が嫌で逃げ回り、5代伊勢ヶ濱が訪問している間は実家に近寄らなかったほどだった[2]。やがて話し合いの結果、体重は24貫に達していたものの身長が5尺3寸で、検査基準の5尺5寸に達しなかったことから、高等小学校を卒業するまで待つことが決定した。しかし、1932年1月6日に勃発した春秋園事件に相撲協会全体が対応せざるを得なくなったため、5代伊勢ヶ濱も巡業に行く余裕など無かったことから、秋田の怪童のことなどすっかり忘れていた。

1934年の冬に5代伊勢ヶ濱の一行が湯沢へ巡業した際に、秋田の怪童のことを思い出し、巡業の合間に怪童の元へ再び出向いた。今度は全く逃げ回ることが無く、怪童の父が亡くなった直後だったことで家計が苦しく、自らの体格を活かす仕事に就きたいと考えていたため、猛反対する母を強引に押し切って伊勢ヶ濱部屋へ入門した[2]
初土俵?スピード出世

1935年1月場所で初土俵を踏む。四股名は、同郷で同部屋の國光鉄太郎を逆にしたのが元であるという[2]。最初はなかなか番付が上がらず苦労していたが、幡瀬川邦七郎からエビオス錠の服用を勧められてから強くなり、以降は伊勢ヶMとの二人三脚の指導で順調に出世した。

当時の史上最年少記録を全て更新したまま、1939年5月場所で新入幕を果たすと、その場所を11勝4敗の好成績で注目される。場所後虫垂炎を悪化させたことで手術を受ける必要に追われ、一時は生命の危機に瀕するも母が上京して看病したおかげで1週間の昏睡状態から意識を取り戻し、4ヶ月の入院を経て見事回復する[2]。退院後の巡業では塞がりきらない傷口にガーゼを当てながら土俵に立った[3]。翌場所は男女ノ川登三から金星を奪って12勝3敗の好成績を挙げると、僅か所要2場所で小結を飛び越して関脇に昇進した。照國の快進撃は留まることを知らず、その後3場所を11勝4敗・12勝3敗・13勝2敗として大関に昇進。22歳0か月での大関昇進は当時としては史上最年少[1]。特に1941年1月場所は母が脳溢血で逝去した心労で風邪に罹り40度の熱を出した中での活躍であった[3][2]。新大関でも12勝3敗の好成績を挙げた。関脇時代の照國(1941年頃)

大関2場所目となった1942年5月場所、番付を見た照國はそれまで双葉山定次と同じ片屋にいたが、この場所は反対側に回されていたため、本人曰く「こっち(反対側)に回ったら双葉山に勝たないと横綱になれない。でも自分には到底勝てそうにない」と弱音を吐いていた[注 1]が、14日目にその双葉山を下手投げで倒して12勝2敗とするが、当時は「番付上位優勝制度」が存在した時代だったため、千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國には優勝の可能性が無かった。結局、この場所の優勝は正大関である安藝ノ海節男(1敗)と双葉山(2敗)の対戦で決まることになり、双葉山が勝利して両者とも13勝2敗、番付上位優勝制度によって双葉山が優勝した。照國は前田山英五郎を倒して13勝2敗で、安藝ノ海と優勝同点とした[2]
最年少横綱照國の土俵入り(1943年)

ここまで照國に優勝経験は無いが、安定感のある成績と双葉山を倒した星が買われて「事実上の優勝者」と判定されたため、場所後に安藝ノ海と揃って横綱へ昇進。この時23歳4ヶ月で第20代横綱・梅ヶ谷藤太郎の持つ最年少横綱の記録を39年ぶりに更新した[1][注 2]

新横綱となった1943年1月場所は、双葉山に唯一の黒星を付けられて14勝1敗に終わり、双葉山が全勝のため初優勝を逃す。その後も成績は安定しているが、第二次世界大戦による食料事情の悪化に加えて敗戦による影響もあって体重が激減したり、終戦直後も糖尿病や左肩・左膝の故障が多発して優勝は出来なかった[2]東京大空襲で持ち家を3件焼失する、1948年10月には引退後の部屋新設に向けて土地を購入するも詐欺に遭い代金の二重払いを強いられるなど私生活でも災難に見舞われた[3]

それでも1950年9月場所は13勝2敗で吉葉山潤之輔との優勝決定戦を制し、横綱昇進から8年後に悲願の初優勝を達成した[1]1951年1月場所には全勝優勝を達成し、この連覇によって「優勝なき横綱」の汚名を返上する[1]と同時に、優勝額復活第1号を飾ることになった[注 3]。その後は無傷だった右膝も故障して優勝が無く、1953年1月場所には糖尿病の悪化に胃潰瘍が加わって3日目から休場、同場所14日目に「回復の見込みがない」として現役引退を表明した[4]。引退は照國の自発的な意思とされたが、14日目の夜に横綱審議委員会の例会が開催されることから、報道機関からの強硬論も相まって引退勧告されるものと誤解したのではないかと横審では指摘された[5]
引退後?晩年

引退後は年寄・荒磯を襲名し、同時に師匠から全弟子を譲り受けて荒磯部屋の看板を掲げ、伊勢ヶ濱の退職後は「伊勢ヶ濱」の名跡を継いで伊勢ヶ濱部屋を経営した。部屋では稽古土俵を2面設ける(1963年以降)[3]などの新しい方式を打ち出したほか、郷里・秋田県を中心にスカウト活動も広げ、清國勝雄開隆山勘之亟を始めとして何人もの幕内力士を育てた[1]。伊勢ヶ濱部屋は増築を重ねた結果1968年以降は6階建てにまで達し、3階は弟子の再就職窓口となった[3]。また、日本相撲協会では理事として長く大阪場所部長を担当したほか、9代春日野が協会理事長に就任する際に対立候補として擁立する動きがあり、予備選では春日野と1票差まで詰め寄るが照國本人が辞退したために実現しなかった[3]


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