照ノ富士春雄
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照ノ富士 春雄

土俵入りする照ノ富士(2022年1月15日大相撲令和4年1月場所7日目)
基礎情報
四股名若三勝 由章(一時章明)→照ノ富士 春雄(一時由章)
本名杉野森 正山
モンゴル名:ガントルガ・ガンエルデネ
Гантулгын Ган-Эрдэнэ
愛称ガンエル、ガナ、The Next Big Thing[注 1]
生年月日 (1991-11-29) 1991年11月29日(32歳)
出身 モンゴルウランバートル市
身長192cm
体重176kg
BMI46.1
所属部屋間垣部屋伊勢ヶ濱部屋
得意技右四つ、寄り、極め出し
成績
現在の番付東横綱
最高位第73代横綱
生涯戦歴509勝269敗201休(78場所)
幕内戦歴352勝201敗167休(48場所)
優勝幕内最高優勝9回
十両優勝2回
幕下優勝1回
賞殊勲賞3回
敢闘賞3回
技能賞3回
データ
初土俵2011年5月技量審査場所
入幕2014年3月場所
趣味トレーニング
備考
大関かつ幕内最高優勝後に序二段まで降格してから大関復帰・横綱昇進を果たした史上初の力士
2024年5月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

照ノ富士 春雄(てるのふじ はるお、1991年11月29日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は間垣部屋)所属の現役大相撲力士、第73代横綱(2021年9月場所 - )。本名は杉野森 正山(すぎのもり せいざん)[2]帰化前はガントルガ・ガンエルデネ(モンゴル語キリル文字表記:Гантулгын Ган-Эрдэнэ)。身長192cm、体重170kg、血液型はO型。大関昇進後に怪我や病気による負け越しや休場が続いて序二段まで陥落した後、そこから大関復帰・横綱昇進を果たした史上初の力士である。2021年(令和3年)8月4日に日本国籍を取得[3]
来歴
入門まで

17歳の頃までスポーツとは無縁の生活をしていたが、自身の大きな身体を活かしたいと考えていたこともあり、母国モンゴルに在住していた入門前には横綱・白鵬の父であるジグジドゥ・ムンフバトに素質を見出され、柔道などを習っていた[4][5]

2007年に母と来日し観光旅行をした折に、偶然相撲部屋関係者に声をかけられて連日稽古を見学したことで、大相撲の世界に魅了され[4][6]、滞在中は観光もせずに相撲部屋の稽古を毎日見学していたという[4]。学業成績も優秀だったため飛び級を認められ、17歳で技術大学に合格[4]。両親も技術者になることを望んだが、相撲留学を決断[6]

2009年3月26日に再来日して鳥取城北高校に編入し、高校3年次の全国高等学校総合体育大会相撲競技で、鳥取城北高校の団体メンバーの一人として優勝に貢献した。高校時代には後輩の逸ノ城と違う怪力を持っていたことから相撲部監督の石浦外喜義に「差されたら抱えろ」と教わった[7]という。来日時点で平仮名やカタカナを書くことができ、日本語もある程度話せたという[8]。当初は稽古でレギュラークラスではない部員に何度も転がされたが、悔し涙を流しつつ顧問のレンツェンドルジ・ガントゥクスからまわしの取り方などを教わった[9]

2010年のインターハイの準々決勝で埼玉栄高校と当たった際に、石浦監督はそれまで補欠であったガントルガ青年を出場させた。「ガナ、ここで勝たないと優勝はできないぞ。お前を使うぞ」といった石浦監督に対しガントルガ青年は「何でそんな心配するんですか? 大丈夫ですよ。」 と言ってのけた[10]という。
入門から関取昇進まで

高校卒業を控えた2010年間垣部屋に入門した。報道によると高校は中退したとされる[11]2011年1月場所前の新弟子検査を受けたが、外国籍力士の入門の為には興行ビザ取得が必要とされる関係上、初土俵は翌5月技量審査場所となった。5月技量審査場所で共に初土俵を踏んだ力士は、幕下15枚目格付出千代大龍の他にも前相撲から取った常幸龍らがいた。初土俵を踏んでから関取に昇進する直前場所まで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である18代間垣(第56代横綱2代目若乃花)が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいる。間垣部屋時代はちゃんこにも事欠き、様々な人から食料を譲り受けるなど苦難を経験した[12]。一部書籍によると、出稽古先でちゃんこを食べられなければ食事抜きになる日もあったほどであったという。

2011年7月場所で初めて番付に四股名が載って以降、序ノ口序二段三段目の各段を1場所で通過するなど順調な出世を見せ、新幕下で迎えた2012年1月場所も、関取経験者の出羽鳳を相手に豪快に吊り出して勝利するなど幕下でも存分に実力を発揮し5勝2敗の成績を修めた[13]。東幕下15枚目で迎えた同年7月場所では3勝4敗と入門以来初の負け越しを喫した。2013年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されて伊勢ヶ濱部屋に移籍。真偽は不明だが、間垣部屋からの移籍は当時外国人枠の空きがなかった伊勢ヶ濱部屋が若三勝を引き入れるための抜け道として初めから考えられたものであるといい、間垣親方も元々満足な部屋経営ができるような健康状態ではなかったためそれに了承したという話もある。一方で、稽古が非常に厳しい上に怖い親方で知られる9代伊勢ヶ濱が師匠を務める伊勢ヶ濱部屋への移籍が決まった際、当初若三勝は怯えていたという話も聞かれる。稽古環境が一気に充実したこともあって2場所連続で6勝1敗の成績を上げ、場所後の番付編成会議で9月場所での新十両昇進が決定した。新十両昇進と同時に四股名を師匠旭富士(9代伊勢ヶ濱)と照國(6代伊勢ヶ濱)の横綱2人にちなんだ「照ノ富士」と改めた[13]。会見では「立合いが相撲の70%を占めると言われる。それを頭に入れて稽古してますが、まだまだ足りない。もっと頑張らないとだめです」と取り口についての課題を語っていた[14]
関取昇進後

新十両として迎えた9月場所も勢いは止まらず、11勝3敗で迎えた千秋楽で鏡桜(同時点で12勝2敗で十両優勝争いの単独トップに立っていた)に本割・優勝決定戦と連勝し十両優勝を果たした。前場所にも遠藤が新十両優勝を果たしており、2011年11月場所の・2012年1月場所の千代大龍以来3例目の2場所連続新十両力士の優勝が記録された[13]2014年1月場所は西十両筆頭で12勝3敗の好成績を挙げ、翌3月場所で新入幕を果たした。その3月場所は9日目に7敗目を喫したがそれ以降6連勝して8勝7敗と勝ち越した。翌5月場所は、場所前に蜂窩織炎を患い初日の朝に退院するという苦しい状況[15] を乗り越え9勝6敗と勝ち越した。三役目前となる東前頭筆頭まで昇進した同年9月場所は、初日の大関琴奨菊戦で立合い変化の意表を突き、大関戦初挑戦にして白星[13]を挙げた。しかし2日目から6連敗する等、その後は振るわず6勝9敗の負け越しに終わった[16]

東前頭2枚目で迎えた2015年1月場所は豪栄道稀勢の里の2大関を破り8勝7敗の成績を修め、自身初の三賞(敢闘賞、当場所唯一の三賞受賞者だった)を受賞した。

翌3月場所は新三役小結の地位を通り越して関脇昇進を果たす[17]。モンゴル出身力士の新三役(関脇)は、2014年11月場所の逸ノ城以来。前相撲を経由した初土俵以来所要23場所での新関脇は、1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては9位のスピード昇進となった。新関脇の3月場所は初日から7連勝し、13日目にはそれまで36連勝だった横綱の白鵬を破るなど13勝2敗で殊勲賞・敢闘賞を受賞した。新関脇での13勝は史上最多勝タイ記録で、過去には1940年5月場所の五ツ嶌1950年9月場所の吉葉山2005年9月場所の琴欧州がいた。

翌5月場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝(平成生まれの力士としては初の優勝)を果たし、5月27日番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生した。審判委員の一部からは「3場所前にはまだ平幕だったことが引っかかる」「もう一場所待つべきでは」との声もあったが、「直前場所での優勝は大きい」と北の湖理事長らが重視した結果、最終的に新大関への異論は出ずに決定した[18]。なお、三役を2場所で通過した上での大関昇進は年6場所制になった1958年以降では初めて。年6場所以前では1951年1月場所後に大関昇進した吉葉山以来64年ぶりとなった。
大関昇進後

2015年7月場所は新大関として初登場し初日から6連勝と好調だったが、7日目に豪栄道に敗れ初黒星。9日目稀勢の里に勝ち8勝1敗と勝ち越したが、その後11日目に白鵬、12日目に鶴竜の両横綱に敗れて優勝争いから脱落。千秋楽は大関角番脱出を賭ける7勝7敗の琴奨菊に立合いで変化されて勝ち越しを許し、結果11勝4敗の成績だった。

2015年9月場所は初日から11連勝し、6日目に時点で優勝争いのトップを独走していた。しかし12日目の栃煌山戦で初黒星、さらに翌13日目の稀勢の里戦で寄り倒された際に右膝を負傷。14日目の豪栄道戦に強行出場するもあっさり寄り切られ3連敗し、横綱鶴竜に優勝争いトップを譲り、星1つの差で追う形で迎えた千秋楽結びの一番では、その鶴竜と直接対決をして寄り切り、12勝3敗で並んだものの、優勝決定戦では上手出し投げで敗れて2回目の幕内優勝はならなかった。場所後の精密検査で「右膝の前十字靱帯損傷・外側半月板損傷などで1か月の加療を要する」との診断書が下され、秋巡業は休場[19]。また翌11月場所、照ノ富士の綱獲りについて北の湖理事長は「優勝又は13勝以上ならともかく、12勝の優勝同点では軽過ぎる」と否定的な意見を表明していた[20]

2015年11月場所、右膝の怪我が完治しない中強行出場するも9日目の大関稀勢の里戦で4勝5敗と黒星が先行。その後は12日目・豊ノ島戦でも敗れるも、13日目の横綱鶴竜戦を叩き込みで、翌14日目の横綱白鵬戦を大相撲の末寄り切り、結果9勝6敗で取り終えた。

同2015年の年間最多勝(65勝25敗)は、白鵬(66勝12敗12休)に僅か1勝届かず初受賞を逃した。

2016年1月場所、4日目の碧山戦で寄り切りで勝った際に右肩を負傷した。5日目の旭秀鵬戦では右腕が全く使えないまま寄り切られ、苦悶の表情を浮かべた。翌6日目の栃煌山戦は不戦敗、右鎖骨骨折(全治不明)により自身初土俵以降初めての休場となった。1月18日には以前から傷めている左膝の内視鏡手術を決行。次の3月場所は、自身初の大関角番となった。

3月場所も膝の状態は完全ではなく、中日までに平幕相手に3敗を喫する苦しい場所となったが、12日目に鶴竜を下しなんとかカド番を脱出した。しかし、その後は3連敗で8勝7敗で取り終えた。

5月場所は膝の状態が悪化した影響で、初日から2連勝した後は3日目から千秋楽まで13連敗を喫した。当場所の連敗によって大関在位中の歴代ワースト連敗記録を更新してしまった。

皆勤した大関が一場所で13敗を喫したケースも2009年3月場所の千代大海以来2例目だった[21]

照ノ富士は記者に「強い大関と言われたこともあるが、これで弱い大関とも言われる。ずっと負けていたら楽しくない」「こういう時でも応援してくれる人がいるのはうれしい。いい時もくる。来場所を見てください」と語っていた[22]

2度目の角番で迎えた翌7月場所は初日に白星を記録し先場所からの連敗を止め、その後4連勝を記録した。しかし、その後3連敗を喫した[23]。その後、8日目に豪栄道に勝利し連敗を止めるが翌日から再び連敗。11日目から白鵬に勝利するなど連勝するも再び13日目[注 2]から連敗。14日目の敗戦後「しょうがない。できることをやって、できないものはいい」と現状を受け入れ、千秋楽に先場所敗れており、ここまで7勝7敗の同じく勝ち越しをかける魁聖との対戦を伝えられると「大丈夫」と自分に言い聞かせていた[25]。そして、迎えた千秋楽で魁聖に小股掬いで勝利し、大関の地位を保持した。照ノ富士は「今場所は長かった。来場所はけがを治してまた」と安堵の様子だった[26]

9月場所は、初日に嘉風に黒星するもその後連勝し4日目に隠岐の海に敗れた(物言いはついたが軍配通り敗れた)あと、再び連勝と4勝2敗で白星が先行していた。しかしその後7日目から千秋楽まで連敗し、自身3度目の角番で翌場所を迎える形となった[27]。12日目に過去10戦全勝の碧山に無抵抗のまま敗れた後の取材では「弱くなってるな、俺」と弱音を吐いていたという[28]。同一年6場所中3場所を角番で迎えたケースは2005年の魁皇千代大海以来[29] 。10月14日の秋巡業豊橋場所でも高安錦木貴ノ岩と22番取って6勝と不調で、特に高安には12連敗を喫した[30]

迎えた11月場所初日は、嘉風に吊り出しで敗れ大関在位中2度目となる10連敗を記録した。その翌日も敗れ11連敗まで記録は伸びてしまったが3日目に隠岐の海に勝利し連敗を止めて以降は復調し8日目には大関琴奨菊を危なげなく寄り切りで倒すなど6連勝した[31]。さらに翌日も魁聖に上手投げで勝利で7連勝。九州入り後は状態も上向き「思い切って相撲を取れている」と自信も見せ[32]、2敗をキープし優勝争いに絡むも全勝だった横綱鶴竜に敗れ連勝がストップ。


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