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中華人民共和国 山東省 煙台市
蓬?閣蓬?閣
山東省中の煙台市の位置山東省中の煙台市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度24分0秒 東経121度16分0秒 / 北緯37.40000度 東経121.26667度 / 37.40000; 121.26667
煙台市(えんたい/イェンタイ-し、簡体字: 烟台市、繁体字: 煙臺市、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Y?ntai)は中華人民共和国山東省に位置する地級市。山東半島東部に位置する港湾都市である。山東半島の北海岸を占め渤海湾に面し、東は威海に、南と西は青島にそれぞれ接する。
山東省最大の漁港であり、なおかつ最初期に対外経済開放された沿岸都市の一つで、産業都市としても急発展している。現在は環境のよさ、景観のよさ、投資環境のよさが中国でも指折りと評価されている。海岸線に沿って広がる砂浜や断崖は、観光地として全中国から人が集まる。
かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」([t?í fǔ]、日本語読みは「しふう」)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は明の洪武帝の治世だった1398年(洪武31年)に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった。
地理月亮湾
煙台は山東半島の北岸の中心部である。北の渤海をはさんで遼東半島と向かい合い、東は黄海をはさんで朝鮮半島と対峙する。市の中心がある芝罘島は典型的な陸繋島で、その他にも大小63の島や岩礁が沿岸に点在しており、廟島諸島(Miaodao)が北の渤海中央部に向かって伸びている。有人島の数は15。西側は渤海の最南部の湾、?州湾に面している。
海岸線の長さは909kmで、地形は36.62%が山地、39.7%が丘陵地(100m - 300m)、20.78%が平野、2.9%が水面である。山地の平均標高は500mで、最高点は崑?山の922.8m。市街地化した面積は 2643.60平方km。
5km以上の長さの川は121ある。大きな川には、五龍河、大沽河、大沽夾河、王河、界河、黄水河、辛安河がある。
海に面しており、夏は比較的涼しく冬は温暖で、年平均気温は11.8度。
歴史煙台市街地のパノラマ
煙台市の先史時代の遺跡として、大?口文化に属する白石村遺跡(煙台市芝罘区新成街)が代表される。当時の道具としては漁撈具の種類である逆T字形釣具が2つ発見されており、抉りがなく、両側刻みのものであった[1]。これらのことから、煙台市は約7000年前の時点で人が生活していたことがわかる[2]。そして、煙台市のこれらの文化・文明は膠東半島の文化においても早期のものであった[3]。
先史時代は、半地下式の住居に住んでいたとされ、屋根は海藻房(アマモ葺き屋根[4])であったとされる[3]。因みに、山東半島ではほかの海藻房集落も発見されている[4]。まだ石器としては石斧、石球、石矢じり、石鎌、石磨盤、石磨などを使用していたことが判明している。これらの出土品から見るに白石村の村民は石器を作るのに多くの時間を費やしていたことがわかる[3]。
また土器・陶磁器も出土している。鉢や罐、三足の鉢、鉢型の鼎も確認されている。これらの陶器から見ても同時代の半坡遺跡などの仰韶文化に技術的には後れを取っていない。骨角器では骨の針、骨のきり、骨の矢じりなどを作成していた[3]。
骨角や貝殻で作られた笄も発見されており、労働及び生活が楽になるという効果と共に、原始的な外見も変化した。これらのことから当時の人々は美に対する意識が高かったと考えられている[3]。
かつては東夷族の居住地があり夏朝の時代に国を建てたといわれている。殷、周、春秋時代には?国の地とされ、戦国時代には斉の領土となった。秦代には斉郡に、前漢の時代には東?郡に属した。始皇帝は3回、武帝は1回芝罘島を訪れたと言われている。隋の時代に?州に、唐、宋、元の時代に登州や?州が置かれた。明、清の時代には?州府が、後に登州府が置かれている。旧イギリス煙台領事館
1858年7月、清は天津条約を結び、登州は煙台と改名され西洋諸国に開港されることとなった。なお、第2次アヘン戦争の際にイギリス・フランス連合艦隊が煙台を占領して艦隊を集結させている。煙台は1861年5月に外国商人たちに対して開港したが、正式に国際貿易港とされたのは、要塞・東海関の竣工にあわせた8月22日のことである。17カ国が煙台に領事館を設置した。ここで1876年に芝罘条約が結ばれている。漁港だった煙台はイギリスの条約港となり急速に都市化したが、20世紀初頭に山東半島全域でドイツ帝国の力が増すと、煙台もドイツに支配されることとなった。また、清も北洋艦隊の拠点とし、1903年に設置された煙台海軍学校は1928年まで中国の海軍士官を育成した。
1905年には、日露戦争後の講和会議の開催候補地のひとつとなった。
第一次世界大戦でのドイツの敗戦により、煙台はアメリカ海軍のアジア艦隊の夏の駐留港となった。日本も交易のために煙台に拠点を置き、両国の影響が市内の政治や建物の様式におよぶことになった。
中国の革命史上でも煙台は重要な役割を果たした。1911年11月12日、中国革命同盟会の山東支部は煙台で決起し、辛亥革命に合流した。翌日には山東軍政府が創設され、その翌日には山東煙台軍政分府と改称した。1914年、煙台を中心とする膠東道が設置され、1925年には東海道と改称された。煙台はこの時期までは膠東道および東海道の福山県(ふくざんけん)に属したが1934年に煙台特別行政区が発足し山東省の直轄地となった。