焼津神社
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焼津神社

拝殿
所在地静岡県焼津市焼津2丁目7-2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度51分54.14秒 東経138度18分49.12秒 / 北緯34.8650389度 東経138.3136444度 / 34.8650389; 138.3136444 (焼津神社)座標: 北緯34度51分54.14秒 東経138度18分49.12秒 / 北緯34.8650389度 東経138.3136444度 / 34.8650389; 138.3136444 (焼津神社)
主祭神日本武尊
社格式内社(小)
県社
別表神社
創建(伝)第18代反正天皇4年
本殿の様式流造
別名入江大明神
例祭8月13日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}焼津神社
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鳥居

焼津神社(やいづじんじゃ)は、静岡県焼津市焼津にある神社式内社旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

旧称は「入江大明神(いりえだいみょうじん)」。ヤマトタケルの東征伝説に関わる神社として知られる。目次

1 祭神

2 歴史

2.1 創建

2.2 概史

2.3 神階


3 境内

4 摂末社

5 関係地

6 祭事

6.1 年間祭事

6.2 例祭


7 文化財

7.1 選択無形民俗文化財(国選択)

7.2 静岡県指定文化財

7.3 焼津市指定文化財


8 現地情報

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

祭神 境内の日本武尊

祭神は次の4柱[1]
主祭神


日本武尊(やまとたけるのみこと) - 第12代景行天皇皇子

相殿神


吉備武彦命(きびたけひこのみこと)

大伴武日連命(おおとものたけひのむらじのみこと)

七束脛命(ななつかはぎのみこと)
上記の相殿神3柱は、日本武尊の東征に従った従者とされる。

日本書紀』『古事記』の伝説によれば、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)は天皇の命で東征し、その途上で賊の火攻めに遭った。しかしヤマトタケルは草薙剣で草を薙ぎ、さらに向い火をつけて難を逃れた。これによりその地は「ヤキツ」(紀は焼津、記は焼遣と表記)と称される、という。この火難伝説地が静岡県焼津地域に比定され、焼津神社はその事跡を伝える神社とされる[2]

ただしこの伝説では、「ヤキツ」の所在地を『日本書紀』で駿河国、『古事記』で相武国(相模国か)と記載し異同が存在する。このことに関しては、「相武国」を単なる誤記とする説のほか、相模国が古くは駿河国も含む広領域であったとする説、駿河・相模に「ヤキツ」が並存したとする説などがあるが明らかではない[3]。『焼津市史』では、ヤマトタケル伝説には『日本書紀』の記述の方に原初的な要素が見られることから、『古事記』の記述にはかなり後世の手が入ったと見て、『古事記』の編纂過程で関東地方の征討に重点を置いたために伝承地が本来の駿河から相模に移されたと推測する[3]。実際、『万葉集』では駿河の地名として「焼津邊」と詠まれた歌が知られる(巻3 284番)[4][5]。また平安時代中期の『和名抄』によると、駿河国には「益頭(ましづ:のちに益津)」が郡名・郷名として存在したが、これは「ヤキツ」の「焼」を忌み好字として「益」をあてたのが「マシヅ」の読みに転訛したものとされる[6][5][3]。そのほか駿河国では、同様にヤマトタケルの火難伝説を伝える式内社として草薙神社静岡市清水区草薙)の存在も知られる[3]

なお、祭神としては他に市杵島姫命とする説があり、『駿河国式社備考』では摂社の市杵島姫命社を元社とする説を挙げる[5]。祭神に関して、文献では中世に「入江大明神」の表記が最も早く見られ、次いで江戸時代頃から市杵島姫命説や現在見る日本武尊説が生じている[5]
歴史
創建

社伝では、景行天皇(第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して当地で野火の難を逃れたとし、のち反正天皇(第18代)4年に日本武尊の功徳を敬って神社が創建されたとする[1]

創建伝承にあるように、焼津神社はヤマトタケル東征の事跡を伝える神社とされる。しかし今日までの研究では、ヤマトタケルは元より実在の人物ではなく、『日本書紀』『古事記』の伝える伝説は各地の伝承を1人の人格にまとめたものとされる[7]。両書に記載される地名起源説話も実際には実在地名を逆に下地にした例が多いことから、焼津の起源説話に関しても「ヤキツ」が先行地名として存在したものと推測される[6][8]。先行地名としての「ヤキツ」の由来は一説に、焼津地域が天然ガスの埋蔵地であることから、これがいつの時か引火して燃え続けたことによるとされる[6][5]

焼津神社付近では、古墳時代の集落跡として宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られる。また焼津神社の祭祀では、焼津市内にある御沓脱・北御旅所・神岩(現在は水没)という各神蹟が古くから重要視される[6]。これらの神蹟は海岸線から神岩→北御旅所→御沓脱→焼津神社(宮之腰遺跡)のように並ぶことから、海の彼方の常世国から神を迎える「神の道」の名残りがこれらにあたると見て、このような常世神信仰が焼津神社の原祭祀であったとする説がある[6][8]


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