無鄰庵
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庭園 無鄰菴、東山区

オープンストリートマップに無鄰菴の地図があります。

無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭。

「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がないことによる。あるいは『論語』「徳不孤必有鄰」"徳は孤ならず、必ず隣あり"にあるかもしれない。

第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。本項では主にこの第三の無鄰菴について説明する。
目次

1 第二無鄰菴

2 第三無鄰菴

2.1 琵琶湖疏水と東山の別荘地

2.2 近代的日本庭園

2.2.1 無鄰菴の建物

2.2.2 疏水の引き入れ


2.3 無鄰庵会議


3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

第二無鄰菴詳細は「高瀬川二条苑」を参照

第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、高瀬川の源流にあった。明治24年に購入。
第三無鄰菴

山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。南禅寺界隈別荘の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3100平方メートル[1]。現在は1941年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年(昭和26年)6月9日、国の名勝に指定された[2]

数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は明治25年ごろから準備を始め[3]1894年明治27年)に造営に着手、明治29年完成[4]。洋館の設計は新家孝正で明治31年に竣工。

所在地:京都市左京区南禅寺草川町31

琵琶湖疏水と東山の別荘地

山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。

この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工する。京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となったのである。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった。[5]
近代的日本庭園

広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので、山縣三名園に数えられる[6]。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。その広さは約3,135平方メートル[7]
無鄰菴の建物

無鄰菴の建物は、木造平屋建(1部2階建)の母屋、薮内流燕庵を模した茶室、煉瓦造2階建の洋館から成る。
疏水の引き入れ

無鄰菴に疏水を引き込む際、「防火用水」の名目が使われている。琵琶湖疏水の建設には多額の税金が掛けられているため、京都市としては「庭園のため」では許可出来なかったためである。[8]

庭園



母屋

第二無鄰菴跡(2017年7月17日撮影)

無鄰庵会議 会議の行われた部屋、洋館2階

この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋政友会総裁・伊藤博文総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎である。

当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめていた。桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのである。


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