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無調(むちょう)、無調性(むちょうせい、英語: atonality, ドイツ語: Atonalitat)とは、調性のない音組織のことである。無調は単なる調性の否定でなく、厳密には、調的な中心音(特定の主音・終止音)がない、和声的な分類体系(トニカ‐サブドミナント‐ドミナント)が働かない、全音階的でないといった特色から、旋法性とも峻別される。 西洋音楽の歴史の中で数世紀の時間をかけて築き上げられた「調性」という名の調的な主従・支配関係に基づく音組織を否定し、19世紀末期から20世紀初頭にかけて新たに形成された音組織の概念である。調性のない音楽のことを無調音楽という。 20世紀の芸術音楽(現代音楽)を特徴付ける最も重要な概念のひとつであり、電子音楽や効果音などの源流にもなっている。一方で、一般聴衆にとっては難解な音楽というイメージがあり、不協和音ばかりが使われた、意味不明で面白くない音楽として商業音楽でヒットすることは稀である。 無調に規律と秩序を与えようと創り出されたものに、「移調の限られた旋法」と「十二音技法」がある(いわゆる全音音階は、移調の限られた旋法の一種である)。その一方で、多調性(複調性・複旋法性)のように、複数の調的・旋法的な音階を同時使用することにより、調的な中心を曖昧にして、伝統的な調性感が働かないように楽曲構成することも可能である。 調性感のある音楽は、15世紀後半まで遡ることができるが、本来の意味における(すなわち機能和声法に基づく)調性音楽は、17世紀に実践的に形成され、18世紀に理論化されて発達を遂げ、19世紀に様々なかたちで高度に応用されるようになった。 見方を変えると、19世紀は調体系の変質・崩壊の時期でもあり、エンハーモニック転調と準固有和音 意図的な調性破壊の試みは、移調の限られた旋法と同じものが用いられたリストの『調性のないバガテル』(1885年)に始まるが、作曲者の死後長らく、その存在が周知されることなく眠っていたということからすると、リストがこの作品で「無調音楽」を他人に聞かせる意図があったのか、それとも一時的な実験をしただけなのかは定かでない。しかしながら、同時期の『暗い雲』『メフィスト・ワルツ第4番』などで同じような手法を繰り返しているところからすると、リストがきたるべき時代の音楽語法を予見していたことは間違いなかろう。 本格的に調性が崩壊したとみなされるのは、20世紀初頭、シェーンベルクら新ウィーン楽派の作曲家が出現した時期である。シェーンベルクは、ツェムリンスキーやシュレーカーら他の同世代のウィーンの作曲家と同じく、ブラームスとワーグナーの両方の影響を折衷的に受け入れて、当初は後期ロマン派音楽の濃密な作風から出発したが、やがてワーグナー的な調性の拡張を、表現の手段や効果として追究するのではなく、表現そのものとして利用するに至った。《室内交響曲 第1番》(1906年)や《弦楽四重奏曲第2番》(1907?8年)がこの例である。後者の終楽章は、いまだに調号を掲げてはいるものの、臨時記号を多用する声部書法とおそろしく緻密なポリフォニーとが相まって、聴感的に調性はすでに名ばかりの存在となっている。この終楽章や、歌曲集『架空庭園の書』(1908?9)が書かれ始めた1908年をもって初めて(移調の限られた旋法や全音音階ではなく、1オクターヴ中の12の音を自由に駆使する)完全な無調が到達された、とする研究者も多い。 シェーンベルクの完全な調性の放棄は、連作歌曲集『架空庭園の書』に始まり、『月に憑かれたピエロ』(1912年)においては、無調と歌唱の実験(シュプレッヒシュティンメ)とが結び付けられている。シェーンベルクの始めた実験は、その弟子ベルクのオペラ『ヴォツェック』(1922年)や、ウェーベルンの一連の器楽曲や歌曲においても受け継がれた(この3人をまとめて「新ウィーン楽派」と呼ぶ)。 シェーンベルク以外にも、スクリャービンの後期のピアノソナタ群における神秘和音の使用、ドビュッシーの『帆』(前奏曲集第1巻)における全音音階の使用など、1900年代初頭には、広い意味では無調ともいえる試みがいくつか見られる。 バルトークは一時期、ストラヴィンスキーの原始主義音楽とシェーンベルクの無調音楽の両方に影響を受けて、尖鋭的な音楽語法を取っていた(バレエ音楽『中国の不思議な役人』など)。
概要
歴史
調性とその拡張
調性の終焉
無調性へ