無為法(むいほう,梵: a-sa?sk?ta-dharm)とは常住法[1]、すなわちサンカーラではない法をさす仏教用語。仏教は一切法(sabba-dhamma)を、無為法と有為法に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う[2][3]。
有為(うい、梵: sa?sk?ta)とは因縁により生滅する存在(無常)であり[4]、対して無為(むい, 梵: asa?sk?taとは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅、形成されざるもの(常住)の存在のこと[5][6]。また、涅槃のことを無為ということもある[5]。
説一切有部においては、過去・現在・未来の多種多様な有為法が、無数の法の流動生滅が織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界である[7]としたうえで、そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為であると考えた[8]。 無為説を伝える部派は、すべて説一切有部が挙げる三無為を継承している[6]。 説一切有部は三無為を唱え[1][6]、以下の3要素を生滅的なあり方を超えたものとして無為法に数えあげた(五位も参照)[7]。 縁起については、品類足論 世親の五蘊論では、三無為に真如を加え、四無為としている[6][12]。 華厳経十無尽蔵品 では、三無為に以下を加え、六無為としている[12][13][注 1]。 瑜伽師地論、大乗阿毘達磨集論 化地部では三無為に以下を加え、九無為としている[6]。 あらゆる存在は精神を離れて存在しないという一切不離識の立場により、「無為」は心・心所の領域に入れられるとみなされる[14]。 『中論』の第七章では、有為法が実有なるものとして成立しえないことを述べたあとで、「(生と住と滅とが成立しないが故に)有為は成立しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか」と主張している[15]。ただし仏教学者の中村元は、有為と無為とは互いに排除する関係にある以上、有為が成立しないとしても無為は成立するかもしれないとしており、一般に『中論』の推論の形式には形式論理学的には不正確なもののあることを、仏教学者の宇井伯寿は指摘している[15] 。
無為法の数
三無為
虚空(こくう、梵: ?k??a) - 物(色)の存在する場所としての空間。
択滅(ちゃくめつ、梵: pratisa?khy?nirodha) - 涅槃のこと。無漏の(正しい)知恵によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。
非択滅(ひちゃくめつ、梵: apratisa?khy?nirodha) - 正しい知恵によらない法の止滅[9][7])
四無為
真如(tathat?)
六無為
真如(tathat?)
縁起(十二縁起)
法性(法界)
八無為
善法真如
不善法真如
無記法真如
不動(?nijya)
想受滅(sann?-vedayita-nirodha)
九無為
不動
善法真如
不善法真如
無記法真如
道真如
縁起真如
宗派による説
唯識派
中観派
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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