無文銀銭
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無文銀銭(むもんぎんせん)は、近江朝時代(667年-672年)頃に発行されたと推定され、日本最古の貨幣といわれている。私鋳銀貨[1]とする説。国家による発行の可能性もあるとする説がある[2]目次

1 概要

2 出土例

3 無文銀銭は貨幣か

4 その他

5 正史の記述

6 脚注

6.1 注釈


7 出典

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

概要

直径約3センチメートル、厚さ約2ミリメートル、重さ約8-10グラム[3][4]。今までに大和で7遺跡、近江で6遺跡、摂津河内山城伊勢の地域で1遺跡ずつの合計17遺跡から約120枚出土している。

銀の延べ板を裁断加工して作られ、古銭の特徴である四角い孔がみられず、小さな丸い孔があるだけである[3]。一般に「和同開珎」のような銭文はないが、「高志」「大」「伴」「○」「×」「田」「T(丁)」などの文字や図形が刻まれたものも出土している。表面に銀片を貼り付けてあるものが多く、重さを揃えるためだったとされる[3]

日本書紀天武天皇12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあり、富本銭に先行して流通していた銀銭ではないかと考える説もある[5]。また、和同開珎が銀銭を先に発行していることと、無文銀銭との関係を指摘する説もある。

無文銀銭が用いられていた当時、朝鮮半島では銀銭は使用されておらず[6]、中国でも銅銭が主流であったが、その理由について、田中史生は『越境の古代史』において、次のような旨で解釈している。新羅・百済・高句麗では、金銀の使用は王権の規制が働き、王権の身分秩序の表象としての機能を備えていたことは、文献・考古学的にも証明されている。それに対し、7世紀以前の日本では、金銀を国際社会からの供給に頼っていたため、各豪族(首長)が入手し、王権の規制を受けず、多元的に流通する下地があった。さらに当時、銀銭を使用していた国は、東南アジアと中央アジアの国であったことから、これらの国からの渡来人の影響が考えられ、『紀』白雉5年(654年)のトカラ国(大夏)人が漂着した記事に目を付け、こうした漂着渡来人と関連したものではないかと考察する[6]
出土例 崇福寺跡から無文銀銭と共に出土した舎利蔵器(左)。無文銀銭はこの脚部に並べられていた。

無文銀銭はこれまでに17遺跡(18遺跡[7][8])から出土し、大和国 7遺跡(8遺跡[7])、近江国 6遺跡、摂津国河内国山城国伊勢国がそれぞれ1遺跡で、7世紀後半に都が置かれた附近に集中する[9]

出土数が多い近江では大津宮(667-672年)との関連が示唆され、天智朝期に発行された説が有力とされる[9][10]。大和では飛鳥京(6世紀末-7世紀末)、藤原京(694-710年)、平城京(710-784年)から出土し、かなり長期に亘って使用された可能性が示唆される。また、摂津の難波京(645年以降)附近でも出土している[7]

延享の頃大隅国から出土[11][12]

宝暦11年(1761年)摂津国天王寺村(大阪市天王寺区) : 眞寳院の畑から100枚前後。2枚現存[7][9][13]

明治6年(1873年)添下郡都祁村(奈良市横領町) : 平城京右京三条一坊から1枚[7][9][13]

昭和15年(1940年)大津市 : 崇福寺跡, 舎利蔵器と共に12枚(1枚紛失)[7][9][13]

1958年, 明日香村川原 : 川原寺跡から1枚。半裁品[7][9]


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