無季俳句(むきはいく)は、季語を持たない俳句のこと。また季語はあっても季感(季節の感じ)を持たない俳句や、季語の有無を問わず詩感(ポエジー)を第一義とする俳句を含めることもある[1][2]。「無季」に対し、句が季語・季感を持つことは「有季」(ゆうき)という[3]。
無季の問題は江戸期、松尾芭蕉の時代から議論されてきた難題であった[1]。近世に成立した俳諧(俳諧連歌)においては、連歌の約束事を継承し、発句(ほっく。最初の五七五の句)には必ず季語を入れるべきものとされる一方、連句の座を離れた場においては無季の発句もしばしば作られていた。近代になって独立した発句を俳句と呼ぶようになるが、「ホトトギス」を長く主宰した高浜虚子は、花鳥諷詠を俳句の本質として唱えて無季俳句を排斥し、俳句は季語を含むべきものとする伝統俳句の考えを普及させた。
近代俳句史においては、無季の問題は明治末期から大正期にかけての新傾向俳句運動、昭和初期の新興俳句運動、昭和30年代の前衛俳句運動という三つの俳句革新運動において提示され、時代ともに深まりを見せている[1][2]。今日の俳壇においても、無季俳句に対する立場は個々の俳人や結社・師系などにより様々である。 俳句は俳諧(俳諧連歌)の発句が独立して読まれるようになったことから成立した形式であるが、鎌倉時代に成立した連歌においては、発句には必ず季語(季の詞)を入れるべきものとされていた[4]。例えば二条良基の連歌書『連理秘抄
近世俳諧における無季(雑)
連歌の発句において季語が求められたのは、これらが「座」の文芸であり、当季の季語を用いて句を作ることが、その席で作られた句であることを示す当意即妙性の証と見なされたからである[3]。近世になって、連歌では用いられない漢語や俗語(俳言(はいごん)と呼ばれた)を使用した俳諧連歌が成立するが、以上のような連歌の決まりごとは俳諧連歌においても継承され、発句において無季の句が詠まれることは非常に稀であった[7]。一方、芭蕉の時代から俳諧連歌の興行とは独立して発句のみを作ったり鑑賞したりすることが行われるようになり、このような発句においては必ずしも多くはないものの無季の句が作られている。芭蕉の門人・向井去来の著書『去来抄』では、門人・卯七からの「蕉門に無季の句興行侍るや」(蕉風では無季の句を発句とした俳諧連歌の興行は行われますか)との質問に対し、去来は次のような返答をしたと記されている[7]。.mw-parser-output .bquote cite{font-style:normal}
無季の句は折々あり。興行はいまだ聞かず。先師(引用者注:芭蕉のこと)曰く、発句も四季のみならず、恋、旅、離別等、無季の句もありたきものなり。されどいかなる故ありて、四季のみとは定めおかれけん。そのことを知らざれば、暫く黙しはべるなり。
芭蕉の無季の発句は後掲するものを含む9句が知られている[1]。のちに芭蕉の門人の一人であった広瀬惟然は、無季の発句を当然あるべきものと主張し、『二葉集』『花の雲』『当座仏』などで自身の門人とともに無季の発句を多数発表した。しかし奇矯な作風に流れたことが災いしその主張も広く受け入れられることはなく、以後近世中には無季の句をめぐる運動は起こらなかった[8]。
以下、近世俳諧における無季の発句の例を挙げる。
歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな 松尾芭蕉 明治中期、正岡子規は天保以来の宗匠俳句を陳腐に堕した「月並調」として退け、連句から独立した俳句をれっきとした文藝の一分野であると宣言し、写生の方法を機軸として俳句の近代化を進めた[9]。『俳諧大要』(1899年)では、子規は俳句における季語について、その季節に関する広い連想を呼び起こすものであり、俳句という短い形式において必要なものと位置づけ、「四季の聯(連)想を解せざる者は終(つい)に俳句を解せざる者なり」と書いている。その上で無季(雑)の句について、.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}雑の句は四季の聯想なきを以て、その意味浅薄にして吟唱に堪へざる者多し。ただ雄壮高大なる者に至りては必ずしも四季の変化を待たず。故に間々(まま)この種の雑の句を見る。古来作る所の雑の句極めて少(すくな)きが中に、過半は富士を詠じたる者なり。しかしてその吟唱すべき者、また富士の句なり。 と書き、富士山を詠んだ句なら無季でも構わないだろうという認識を示している[10]。子規自身も富士を詠んだ無季句の実作を試みており、子規の死後にまとめられた句集『寒山落木』(1924-26年)には「不二は朝裾野は暗のともし哉(かな)」「富士の山雲より下の広さかな」といった句が収められているが、いずれも拾遺句・抹消句として収録されているもので成功作ではない[11]。 子規の没後、明治40年(1907年)頃から大正期にかけて河東碧梧桐が新傾向俳句運動を推進し、季語の暗示的な用法や、写実主義の影響のもと、人為を廃して対象に迫るべきことを説いた「無中心論」を展開、結果として定型や季語(季題)・季感は軽視された[12][13]。碧梧桐自身は季語・季題を捨てることまではしなかったが、この新傾向俳句運動の周辺から、「層雲」主宰の荻原井泉水やその弟子の尾崎放哉、種田山頭火、「試作」(のち碧梧桐に代わり「海紅」主宰)の中塚一碧楼が[14]、それぞれ季語や定型に囚われない句作を提唱し、彼らによってしばしば無季・口語によって作られる自由律俳句の流れが作り出されていった[15]。また自由律は栗林一石路や橋本夢道を中心に、季題に囚われないプロレタリア俳句運動を展開した[14]。 走つてぬれてきて好い雨だという 荻原井泉水 こうした新傾向俳句の広まりに対して、一時俳壇を退いていた高浜虚子は1913年頃に俳壇に復活、季語・定型を重視する立場を表明し「守旧派」を自称した。1928年頃からは「客観写生」の理念に加えて「花鳥諷詠」の理念を説き、俳句とはすなわち季節の風物(花鳥風月)を詠むものであるとして無季俳句を排斥する立場を取る[16][17]。虚子の主宰する「ホトトギス」の伝統俳句は俳壇の主流となり、これにより「季語を持たないものは俳句ではない」という観念が広まっていった[18]。なお20万を超えると言われる虚子の句の中には無季の句もあり、以下のような数句が確認できるが、いずれも後年になって句集・全集などから削除されたり、別の句に差し替えられたりしている[19][20]。 虎の皮の褌に居る虱かな 明治32年 上記のように俳壇の主流を占めていた「ホトトギス」の伝統俳句に対し、1931年の水原秋桜子の「ホトトギス」離反を始点として、反伝統・反「ホトトギス」を旗印とした新興俳句運動が起こる。
世にふるもさらに宗祇のやどりかな 同
油さし油さしつつ寝(い)ぬ夜かな 上島鬼貫
歌書よりも軍書にかなし吉野山 各務支考
水さつと鳥よふはふはふうはふは 広瀬惟然
襟にふく風あたらしきこゝちかな 与謝蕪村
亡き母や海見る度(たび)に見る度に 小林一茶
俳句の近代化と無季
まっすぐな道でさみしい 種田山頭火
入れ物が無い両手で受ける 尾崎放哉
赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け 中塚一碧楼
しんじつたべ酔うた百姓のよろしき雨降り 栗林一石路
べっとりと濡れた今日の賃金が同じだ 橋本夢道
祇王寺の留守の扉や推せば開く 大正14年
我に似し人を気おひてけなしけり 昭和5年
雨漏りを指さす人と瓦廊かな 昭和11年
荷物置き上着脱ぎかけ発車待つ 昭和12年
面舵を取りて灯台右舷に見 昭和15年
公園の茶屋の亭主の無愛想 昭和16年
新興俳句における無季