この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
この項目では、火で受刑者を殺害する死刑について説明しています。国旗や象徴物などを燃やす行為については「火刑式」をご覧ください。
火刑
火刑(かけい)は、受刑者に火をつける、あるいは火であぶることにより絶命させる死刑のひとつ。火罪(かざい)、火焙り(ひあぶり)、焚刑(ふんけい)とも呼ばれる。
火刑は、公開処刑で見せしめ(一般予防)的要素が強く、一度の処刑で多数の人間に対し、凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるというメッセージを与える事が出来るという点で効果的である。また多数の受刑者を一時に処刑できるという点も効率的だが、処刑準備に時間がかかるという欠点も持ち合わせている。
火刑では、火傷で死ぬことより、煙で窒息死したり、ショック死したりすることのほうが多い。また、あらかじめ絞首刑などで殺した死刑囚を焼くために行われることもある。また生きている人間を焼き殺すというのはあまりにも残酷なので、「温情」という名目で刑吏が火をつける前に絞殺したり、胸に杭を打ち込んだりして殺害する例もあったという。目次
1 魔女狩り
2 中国の火刑
3 江戸時代の火刑
4 現代
5 画像
6 出典
7 参考文献
8 関連項目
魔女狩り 異端の罪で火刑にされるジャンヌ・ダルク
ヨーロッパでは、火刑は宗教的異端者や魔女狩りで、魔女とされた者に対して科せられることが多かった。魔女の疑いをかけられた人間は、水を何百リットルも飲まされる、親指つぶしという拷器で指を潰されるなどの拷問を受けた。
魔女として魔術を行ったり、悪魔と性行為を行ったという自白をさせられてから、火刑の判決を受けた。拷問中の死亡も多かった。また、拷問に耐えかねて他の女性などを魔女として告発する容疑者もおり、これで芋づる式に逮捕された容疑者が同じ拷問にあい、魔女に仕立て上げられるケースもあった。
この場合の火刑は、被疑者の姿がよく見えるよう、棒に縛り付けた上で足元に可燃物を置く形で準備が進められ、受刑者は衆人監視のなか、火をつけられて焼き殺された。このときの火刑にも「慈悲を与える」との名目で予め別の方法で殺害する方法が取られることもあった。
伝統的なキリスト教の価値観では、最後の審判の時まで肉体が残っていなければならない。火刑は肉体を燃やし尽くしてしまうため、苦痛もさることながら、宗教的な観点から見ても恐ろしい厳罰であった。その為、スペイン異端審問などを始めとする異端審問においては「異端者を現世より完全に消滅させる」という意味合いでも、最も重い刑罰の一つとして火刑が多用された。 中国史は火刑の事項は非常に少ない。楚漢戦争中に、漢の劉邦の囮となって捕らえられた将軍の紀信が項羽によって火刑に処されている(異説もある)。また、前漢では巫蠱の禍により戻太子劉拠が非業の死を遂げ、のちそれが冤罪と判明したときに、息子の死に激怒した武帝が戻太子の死に関与したとして宦官の蘇文
中国の火刑
さらに明末にビルマ国王の裏切りで、呉三桂に引き渡された南明の永暦帝と皇太子朱慈R父子が、昆明で火刑に処されたという(縊り殺された説もある)。 江戸時代の日本では、火刑は付け火(放火)を行った者などに適用された(西洋でも放火の処罰に行われたことが多い)。市中引き回しを終え刑場に引き立てられた罪人は下働きの非人が馬から下ろし、竹枠が組んである柱に縛り付けられる(罪人を縛り付ける縄は燃え落ちないように泥が塗ってある)。 竹枠の周りに萱を積み上げ、顔以外の罪人の体を覆い隠し、足元には薪を積んで踏ませる。 一連の作業が終わると弾左衛門配下の手代が検視役の与力に準備が整った旨を伝える。検視役の与力は同心に指示をして罪人に間違いないことを確認し、顔を萱で塞ぐ。 検視役与力から命令が出されると風上から火がかけられる。周りでは非人がむしろで仰いで火勢を強くする。 罪人が死亡したら最後に止め焼き(男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を火で焼く)という動作を行って処刑は完了となる。 その後は磔と同じく三日三晩晒した後、非人が刑場の片隅に死体を打ち捨てた。あとは、烏や野犬などが処理して「無」に帰った。 名和弓雄が鈴ヶ森大経寺の住職に聞いたところによると、鈴ヶ森では海からの横殴りの風が強烈に吹くため、罪人を包む炎が燃えたり消えたりを繰り返し、罪人は獣のような叫びを上げたという。 江戸時代の前期、江戸幕府による処罰の記録『御仕置裁許帳』によると、江戸で放火を行った犯人は未遂を含めて火刑に処されることが多いが(放火犯には拷問で牢死する者や中には遠島(島流し)の者もいる)、その刑場は品川と浅草が多く、巣鴨刑場で火刑が行われたケースもある。江戸では火刑場は品川のみとの誤解もあるが、少なくとも江戸前期では火刑場は品川のみではない[1][2]。 現代では多くの国で刑法による罪刑法定主義が採られているため、[要出典]死刑制度が残されている国であっても火刑を公式な処刑として用いている国家は存在しない。前述のキリスト教異端審問などのような宗教的な意味合いのある重刑罰としても、多くの国では19世紀ごろを最後に火刑は行われなくなり、現代では私刑の形をとる殺人行為を除いては火刑は刑罰としてはほぼ消滅している。 ハッド刑や石打ちなど、近代的な死刑制度と比較しても残酷な処刑法が残されているイスラム教のイスラム法においても、火刑は禁忌として解釈されている。伝統的なイスラム教の価値観においても、キリスト教同様に最後の審判の概念が存在するため、本来神(アッラー)にのみ許されている火によって人体を損壊する行為は、それ自体がアッラーに対する冒涜と見なされるためである。 その一方で、発展途上国の中でも近代刑法や警察組織はおろか、それに代替する宗教法などの普及も十分でない国では、群衆が犯罪者(と見なされた無実の人物も含まれうるが)を集団で制裁を加える事で秩序の維持を図る事(Mob Justice、暴徒による正義)も多く、その一環として火刑が用いられる事も多い。 2015年に入ると、イスラム過激派の中でも最も暴力的とされるISILにより、ムアズ・カサースベを始めとする交戦国の捕虜や、占領地域の異教徒に対して火刑を用いる例が急増している。ISIL側はイブン・タイミーヤの『おぞましい死によって敵を撃退できるのであれば、それは正当な聖戦だ』という発言を引用し、火刑を正当化しているが[4]、多くの一般的なイスラム教徒にとっては火刑は最も忌避されるべき行為と認識されており、カサースベの処刑もイスラム教に対する侮辱として捉えられているという[5]。 火刑に処されるテンプル騎士団 アヴァクームの火刑を描いた、19世紀末のイコン バーデンで火刑に処される3人の魔女
江戸時代の火刑
現代
画像