焉耆
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この項目では、歴史上の国について説明しています。新疆ウイグル自治区の自治県については「焉耆回族自治県」をご覧ください。

焉耆
中国語
中国語 焉耆

発音記号
標準中国語
漢語?音Y?nqi (イエンチー)

日本語
ひらがな えんき
英語
英語Karasahr
ウイグル語
ウイグル語 ????????? ??????

焉耆(呉音:えんぎ、漢音:えんき、?音:Y?nqi)は、かつて中国東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州 焉耆回族自治県にあたる。玄奘の『大唐西域記』では阿耆尼国(あぎにこく)と記されている。別名イエンチー。
歴史紀元前1世紀の西域諸国と焉耆国の位置(地図右上)。
前漢の時代

焉耆国は他の西域諸国とともに匈奴の属国となっていた。匈奴の西辺日逐王は僮僕都尉を置いて、西域を領させ、常に焉耆国・危須国・尉犁国の間に駐屯し、西域諸国に賦税し、富給を取った。

宣帝(在位:前73年 ? 前49年)の時代、車師国が漢と通じると、匈奴は怒り、その太子の軍宿(中国語版)を召して人質にしようとした。軍宿は焉耆王の外孫で、匈奴への人質になりたくないので、焉耆国に亡命した。

[1]
新の時代

始建国5年(13年)、匈奴の烏累若?単于王莽は不和となり、匈奴は新の北辺を攻撃した。焉耆国はこれに呼応して西域都護の但欽(中国語版)を殺した。

天鳳2年(15年)、王莽は五威将の王駿・西域都護の李崇(中国語版)を派遣して戊己校尉郭欽を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは莎車国・亀茲国の兵7千余人を率い、数部隊に分かれて焉耆国に攻め入った。焉耆国は伏兵で王駿を遮り、さらに姑墨国・尉犁国・危須国の兵も加わって、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。一方、戊己校尉の郭欽は別働隊だったので、焉耆の本隊がいないうちに焉耆本国を襲撃し、老人などを殺して帰還し、?胡子に封ぜられた。西域都護の李崇は亀茲国だけを維持して帰還した。数年後、王莽や李崇が死去したため、中国と西域は一旦国交が途絶える。

[1]
後漢の時代1世紀のタリム盆地

建武21年(45年)冬、莎車王の賢の暴虐ぶりを恐れた車師前王国?善国・焉耆国ら18国は、後漢に侍子を遣わして朝貢した。そこで西域18国は以前のように西域都護を派遣するよう懇願したが、光武帝がまだ中国を平定しきっていないとのことで、侍子は還され、西域都護は派遣されなかった。翌年も?善王は上書して西域都護の派遣を求めたが、派遣されなかったので、今度は匈奴に救援を求め、?善国と車師国は匈奴に付くこととなった。

匈奴は于?王の広徳が莎車国を滅ぼしたと聞き、五将を派遣して焉耆国・尉犁国・亀茲国ら15国の兵3万余人を発して于?国を包囲し、于?国を服属させた。

永平16年(73年)、明帝は北伐を行い、太僕祭?・奉車都尉の竇固(中国語版)・?馬都尉耿秉騎都尉の来苗に北匈奴を討たせ、仮司馬の班超を西域諸国に派遣し、ふたたび西域と国交が結ばれた。

永平18年(75年)、明帝が崩御すると、焉耆国と亀茲国は西域都護の陳睦・副校尉の郭恂を攻撃して殺し、匈奴と車師国は戊己校尉を包囲した。

永元6年(94年)、西域都護の班超は焉耆国・危須国・尉犁国・山国を撃ち破り、焉耆王と尉犁王を斬首した。これにより西域の50余国は後漢に内属し、さらに班超は焉耆左侯の元孟(中国語版)を新たな王とした。

永建2年(127年)、西域諸国はふたたび反乱を起こしたので、西域長史の班勇(中国語版)はふたたび焉耆国を撃ち降し、これにより亀茲国・疏勒国・于?国・莎車国ら17国は後漢に服従した。

建寧5年(172年)、涼州刺史孟佗は従事の任渉を遣わし敦煌兵500人を率い、戊己司馬の曹寛・西域長史の張晏(中国語版)と、焉耆国・亀茲国・車師前後部を率いて、3万余人を合わせ、疏勒国の髓城を攻めたが、40余日して降せず、撤退した。

[2]
晋の時代3世紀タリム盆地。Kashgar=疏勒,Kuqa=亀茲,Karaxahr=焉耆,Turfan=高昌,Hotan=于?,Shanshan=?善

太康年間(280年 - 289年)、焉耆王の龍安(中国語版)は西晋に侍子を遣わした。龍安が死ぬと、子の龍会(中国語版)が焉耆王となり、父の仇であった亀茲王の白山(中国語版)を討ち滅ぼし、自らが亀茲王となり、子の龍熙(中国語版)に焉耆王として本国を統治させた。龍会は西胡に覇を唱え、葱嶺以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。

前涼張駿沙州刺史の楊宣を西域に派遣した。楊宣は部将の張植を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。

前秦建元18年(382年)、驍騎将軍の呂光苻堅の命を受け、都督西討諸軍事に任じられ、10余万の兵を率いて西域を討伐し、焉耆王の龍熙は呂光に降る。

396年、呂光が天王と称し後涼を建国すると、龍熙は侍子を遣わして朝貢した。

[3]
北朝の時代5世紀のタリム盆地の勢力図

北魏太武帝(在位:423年 - 452年)は成周公万度帰に命じて焉耆国を討伐した。万度帰は左回と尉犁の二城を落とし、さらに都の員渠城を攻めた。焉耆王の龍鳩尸卑那(中国語版)は籠城して防いだが、万度帰に敗れ、山中に逃れた。これにより焉耆国は北魏の支配下に入った。その後、龍鳩尸卑那は焉耆国に戻るが、国の惨状を見て隣国の亀茲国に亡命した[4]

柔然始平3年(508年)、柔然可汗の伏図(在位:506年 - 508年)が高車王の弥俄突(中国語版)に殺されると、高昌王の?嘉は高車に臣従した。また、?嘉は??(エフタル)に攻撃されて王位不在となった焉耆国の民衆から焉耆王になるよう頼まれたので(焉耆国の民衆の中には以前、高車によって高昌から移住させられた胡人たちがいたため)、その次男を派遣して焉耆王として焉耆国を統治させた[5]

北周保定4年(564年)、焉耆王は遣使を送り、名馬を献じた[6]
隋の時代

大業年間(605年 - 618年)、焉耆王の龍突騎支(中国語版)は遣使を送り、に朝貢した[7]
唐の時代7世紀のタリム盆地(大唐西域記)

焉耆国は西突厥の属国となる。

貞観6年(632年)、焉耆王の龍突騎支は遣使を送り、に朝貢した。これにより太宗は隋末の動乱以来断絶していた中国と西域との国交を結ぶことができた。しかし、それまで焉耆国が朝貢し、中国との通商路を遮断していた高昌はこのことに怒り、兵を遣わして焉耆国を襲撃した。西突厥の莫賀設泥孰は咄陸部・弩失畢部と不和になり、焉耆国に逃れてきた。


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