烏維単于
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烏維 単于(うい ぜんう、?音:W?wei Chanyu、? - 紀元前105年)は、中国前漢時代の匈奴単于伊稚斜単于の子。烏維というのは名で、姓は攣?氏、単于号は不明。
生涯

伊稚斜単于の子として生まれる。

元鼎3年(前114年)、伊稚斜単于が死ぬと、烏維は単于の位に就いた。この頃まで漢の武帝は南方の越族の反乱を鎮めることに忙しく、匈奴を攻撃しなかった。匈奴も漢の国境地帯に侵入することはなかった。

元鼎6年(前111年)、南方の反乱を鎮めた漢は、もと太僕公孫賀に1万5千の騎兵をつけて、九原から出撃させた。公孫賀は2千余里進み、浮苴井まで行ったが、1人の匈奴人も発見しなかった。また、もと従驃侯の趙破奴にも1万余騎をつけて令居から出撃させ、数千里進んで匈奴河水まで行かせたが、1人の匈奴人も発見できなかった。

漢は郭吉を匈奴に送り、匈奴に漢の臣下となるよう交渉させた。単于烏維は怒って郭吉を留置し、北海(バイカル湖)のほとりまで流刑としたが、漢の国境地帯に侵入する勇気がなかったので、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込んだ。そこで漢は楊信を送り、講和する条件として、単于の太子を人質として漢に差し出すように要請した。しかし、漢側が公主綿・食物などの品々を匈奴に送ってから講和する従来の立場と違うとし、使者を送り返した。また漢は王烏を使者として匈奴に送ったが、単于が漢の高官とでないと交渉はできないとし、匈奴の貴族を使者として送ってきた。しかし、その使者が漢に到着すると病気で死んでしまい、漢は高官として路充国を送ったが、単于は匈奴の貴族が漢によって殺されたと思いこみ、路充国を留置してしまった。これにより交渉は決裂し、匈奴はたびたび漢の国境地帯に侵入するようになった。

元封6年(前105年)、単于烏維は亡くなり、子の・師廬(児単于)が後を継いだ。
参考資料

史記』(匈奴列伝)

漢書』(匈奴伝)











匈奴の第6代単于(前114年 - 前105年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / (右谷蠡王単于)前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / ?犁湖単于前102 / 且?侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍?単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍??単于前60-前58
分裂時代

東匈奴

呼韓邪単于前58-前31
西匈奴

?支単于前56-前36
対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代

復株累若?単于前31-前20 / 捜諧若?単于前20-前12 / 車牙若?単于前12-前8 / 烏珠留若?単于前8-13 / 烏累若?単于13-18 / 呼都而尸道皋若?単于18-46 / 烏達?侯単于46
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21
北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / (於除?単于)91-93
南匈奴

醢落尸逐?単于48-56 / (??左賢王単于)50 / 丘浮尤?単于56-57 / 伊伐於慮?単于57-59 / 醢僮尸逐侯?単于59-63 / 丘除車林?単于63 / 湖邪尸逐侯?単于63-85 / 伊屠於閭?単于85-88 / 休蘭尸逐侯?単于88-93 / 安国単于93-94 / 亭独尸逐侯?単于94-98 / (逢侯単于)94-118 / 萬氏尸逐侯?単于98-124 / 烏稽侯尸逐?単于124-128 / 去特若尸逐就単于128-140 / (車紐単于)140 / 呼蘭若尸逐就単于143-147 / 伊陵尸逐就単于147-172 / 屠特若尸逐就単于172-177 / 呼徴単于178-179 / 羌渠単于179-188 / 持至尸逐侯単于188-195 / (須卜骨都侯単于)188-189 / 老王による執政189-195 / 呼廚泉単于195-216
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