烏?提(うこつてい、373年? - 407年?)は、吐谷渾の首長。またの名を大孩といった。 視連の末子として生まれた。兄の視羆が死去すると、その子の樹洛干らがまだ幼かったため、烏?提が後を嗣いだ。烏?提は樹洛干の母の念氏を妻に迎え、慕?と慕利延が生まれた。 烏?提の性格は臆病軟弱で、酒色にふけって政治をかえりみず、念氏が国政を専断した。西秦の乞伏乾帰が長安に入ると、烏?提はたびたび国境を侵犯した。乞伏乾帰はこれに怒って騎兵を率いて吐谷渾を討った。烏?提は大敗し、1万人あまりを失って南涼に逃れ、南涼で死去した。享年は35。甥の樹洛干が後を嗣いだ。 先代
生涯
参考資料
『晋書』四夷伝
『宋書』鮮卑吐谷渾伝
『魏書』吐谷渾伝
『北史』四夷伝下
視羆吐谷渾の首長
第7代:400年? - 407年?次代
樹洛干