本来の表記は「烏珠留若?単于」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
烏珠留若?単于(呉音:うしゅるにゃくたいぜんう、漢音:おしゅりゅうじゃくていせんう、ピンイン:W?zh?liuruod?chanyu、? - 13年)は、中国前漢時代から新時代にかけての匈奴の単于。呼韓邪単于と第1閼氏(?渠閼氏
)との子で、車牙若?単于の弟。烏珠留若?[1]単于というのは単于号で、姓は攣?氏、名は嚢知牙斯(のうちがし)という。呼韓邪単于と第1閼氏(?渠閼氏)との間に生まれる。
建始2年(前31年)、兄の復株累若?単于が即位すると、王位継承の規則[2]により三番目の弟であった嚢知牙斯は右賢王[3]に任ぜられた。
元延元年(前12年)、兄の車牙若?単于が即位すると、嚢知牙斯は左賢王[4]に任ぜられる。
綏和元年(前8年)、車牙若?単于が死去し、左賢王の嚢知牙斯が烏珠留若?単于として即位した。烏珠留若?単于は弟の楽を左賢王に任命し、第5閼氏の子の輿を右賢王に任命した。また、子の右股奴王である烏?牙斯
を漢に遣わして入侍させた。漢は中郎将の夏侯藩、副校尉の韓容を匈奴に派遣した。綏和2年(前7年)、侍子の烏?牙斯が死去したので、烏珠留若?単于はふたたび子の左於?仇?王である稽留昆を入侍させた。
建平2年(前5年)、烏孫王の庶子である卑援?が翕侯(きゅうこう:諸侯)などを率いて匈奴の西界に侵入し、牛などの家畜を盗んで多くの人民を殺した。烏珠留若?単于はこれを聞くと、左大当戸の烏夷?に5千騎を率いさせて烏孫を撃たせ、数百人を殺し、千人あまりと、牛などの家畜を奪い去った。卑援?はこれに恐れをなし、子の趨?を匈奴への人質とした。烏珠留若?単于はその人質を受けとり、このことを漢に報告した。しかし、漢は中郎将の丁野林、副校尉の公乗音を派遣してその人質を返すよう告げてきた。烏珠留若?単于は詔を受けとり、人質を返してやった。
建平4年(前3年)、烏珠留若?単于は上書して明年の建平5年(前2年)に入朝すると報告した。
建平5年(前2年)、烏珠留若?単于は病のため、入朝を次の年(前1年)に延ばしてもらうことにした。
元寿2年(前1年)、烏珠留若?単于はようやく漢に入朝し、衣370襲、錦繍鋤3万匹、絮3万斤を賜った。
元始2年(2年)、車師後王の姑句,去胡来王の唐兜が西域都護と戊己校尉の仕打ちを怨み、妻子人民を率いて匈奴に亡命してきたので、烏珠留若?単于は彼らを受け入れ、左谷蠡王の地に住まわした。烏珠留若?単于はこの事を漢に報告した。そこで漢は中郎将の韓隆,王昌、副校尉の甄阜、侍中謁者の帛敞、長水校尉の王歙を匈奴に派遣して「西域は漢に内属しているから受け入れてはならない」と伝えさせた。しかし烏珠留若?単于は「外国だからいいのではないか?」と意見したが、漢の使者たちが「漢の恩義を忘れたのか」と詰め寄ると、烏珠留若?単于は自分の頭を叩いて謝罪した。烏珠留若?単于は2人の王を護送した際、2人の赦免を請うたが、時の権力者である新都侯の王莽は車師後王と去胡来王を見せしめとして誅殺させた。加えて王莽は、以下の4条を取り決めた。
中国人の亡命者を受け入れてはならない。
烏孫人の亡命者・投降者を受け入れてはならない。
西域諸国で中国の印綬を受けた者の投降者を受け入れてはならない。
烏桓人の投降者を受け入れてはならない。
また、王莽が中国では2文字の名を1文字に改めるよう奏上したので、烏珠留若?単于にもそのことが伝えられ、烏珠留若?単于は本名である“嚢知牙斯”を改めて“知”と称すようになった。
さらに、今まで烏桓から貢納されてきた皮布税を王莽によって停止させられた。これによって匈奴と烏桓の間で争いが起き、烏珠留若?単于は左賢王に命じて烏桓に侵攻させ、多くの烏桓人を殺させた。
始建国元年(9年)、遂に王莽が帝位を簒奪し、漢を滅ぼして新を建てた。王莽は五威将の王駿と甄阜、王颯、陳饒、帛敞、丁業の6人を匈奴へ派遣し、単于が持っている古い印綬と新しい印綬を取り換えさせた[5]。その後、烏珠留若?単于はもとの印綬がほしいと言ったが、すでに砕かれており、戻ってくることはなかった。
このような一連の王莽による政策に不満を感じた烏珠留若?単于は翌年(10年)、西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命してきたとき、条約を無視してこれを受け入れた。そして狐蘭支は匈奴と共に新へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせた。時に戊己校尉史の陳良,終帯、司馬丞の韓玄、右曲候の任商らは西域の反乱を見て、戊己校尉の?護を殺し、匈奴に投降した。韓玄と任商は南将軍所に留まり、陳良と終帯は単于庭に至り、烏珠留若?単于より烏桓都将軍に任ぜられた。烏珠留若?単于は2人を単于庭(首都)に留め、何度か飲食を与えた。
始建国3年(11年)、西域都護の但欽は上書して「匈奴南将軍の右伊秩?王が人衆を率い、諸国を寇撃しようと企んでいる」と報告した。そこで王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、中郎将の藺苞、副校尉の戴級に兵1万騎を率いさせ、多くの珍宝でもって雲中塞下に至り、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。やって来たのは右犁汗王の咸と、その子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とした。そして助と登を長安に連れ帰った。この事を聞いた烏珠留若?単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩?王の呼盧?、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂した。
この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。
始建国5年(13年)、烏珠留若?単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若?単于となった。
子
右股奴王(烏?牙斯)
左於?仇?王(稽留昆)
右大且渠王(方)
左日逐王(都)
蘇屠胡本
醢落尸逐?単于(比)
丘浮尤?単于(莫)
伊伐於慮?単于(汗)
脚注^ “若?”とは匈奴の言葉で“孝”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若?単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>
^ 復株累若?単于の即位に際して、呼韓邪単于の年少者でも第一夫人(?渠閼氏)の子に継がせるか、年長者で第二夫(大閼氏)人の子を継がせるかで意見が分かれたので、最終的に第一夫人・第二夫人に関係なく、年上から順に単于位を継承させる規則を立てた。<『漢書』匈奴伝下>
^ 右賢王は匈奴における王位継承第三位。
^ 左賢王(さけんおう)は匈奴における王位継承第一位。
^ 従来の漢による印綬には「匈奴単于璽」と刻まれていたが、新の印綬には「新匈奴単于章」と刻まれていた。前の印綬には匈奴の自立性を尊重して“漢”の文字を入れなかったが、新しい印綬には新朝に服属するという意味を込めて、わざわざ“新”の文字を入れ、さらに“璽”から“章”にランクを落とされた。
参考資料
『漢書』(匈奴伝下)
表
話
編
歴
再統一匈奴の第4代単于(前8年 - 13年)
統一時代
頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / (右谷蠡王単于)前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / ?犁湖単于前102 / 且?侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍?単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍??単于前60-前58
分裂時代
東匈奴
呼韓邪単于前58-前31
西匈奴
?支単于前56-前36