烏桓
[Wikipedia|▼Menu]

烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: W?huan)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。『三国志』などでは烏丸と表記する。
歴史
匈奴からの独立

漢代の初め、匈奴冒頓単于東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓と鮮卑になった。初めは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。もし定めの時期を過ぎてもその数が揃わないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。匈奴の壺衍?単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代になると、烏桓の力がだんだん強くなり、匈奴の単于の墓を暴いて、冒頓単于に敗れた時の恥に報復した。壺衍?単于は激怒し、2万の騎兵をやって烏桓に攻撃をかけた。大将軍霍光(かくこう)は、この情報を得ると、度遼将軍范明友を送り、3万の騎兵を率いて、遼東郡から出陣し、匈奴の後を追って攻撃をかけた。范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏桓は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏桓に攻撃をかけ、6000余りの首級を上げ、3人の王の首を取って帰還した。その後も烏桓は幾度か長城地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。王莽の末年になると、烏桓は匈奴とともに侵略を行うようになった。光武帝が天下を平定すると、伏波将軍の馬援を送り、3000の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。しかし何の成果も上げず、馬1000余匹を死なせただけであった。烏桓は引き続いて勢力を盛んにし、匈奴に略奪や攻撃を仕掛けた。匈奴は千里の彼方へ居住地を移し、漠南の地(内モンゴル)は空になった。
後漢の時代

建武25年(49年)、烏桓の大人?旦(かくたん)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、遼東属国遼西右北平漁陽広陽上谷代郡雁門太原朔方の諸郡に分けて住まわせ、同じ烏桓族の者たちを内地に移るよう招き寄せた。彼らに衣食を給し、護烏桓校尉の官を置いてその統治と保護にあたらせた。こうした施策の結果、烏桓は漢のために塞外の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。

永平年間になって、漁陽烏桓の大人の欽志賁(きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。遼東太守祭?(さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。

安帝の時代になると、漁陽・右北平・雁門の烏桓の率衆王無何(むか)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡・上谷・?郡五原で略奪を働いた。そこで大司農の何熙(かき)に車騎将軍を兼任させ、近衛兵をその旗下につけ、国境地帯の7つの郡と黎陽営の兵士を動員して、合わせて2万の軍で攻撃をかけさせた。匈奴は降服し、鮮卑と烏桓はそれぞれ長城の外へ引き揚げていった。これ以後、烏桓はまただんだんと漢に接近してきたので、彼らの大人戎末?(じゅうまつかい)を都尉の官に就けた。順帝の時代には、戎末?は、主だった配下の咄帰(とつき)や去延らを率い、護烏桓校尉の耿曄(こうよう)に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、を賜った。中平二年(185年)、皇甫嵩が韓遂・辺章の乱を討伐すべく、烏桓兵三千人の増援を要請した時、北軍中候であった鄒靖は「烏桓兵は弱いので鮮卑兵を採用すべきだ」と意見した。しかし、応劭が「鮮卑兵は戦地で略奪を働くであろう」と反対したため、鄒靖の意見は斥けられた。この時、鄒靖に同調した大将軍掾の韓卓の言によると、鄒靖は辺境近くで暮らしていて異民族たちの実態をよく知っていたという。
?頓の登場

漢の末年、遼西烏桓の大人丘力居(きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏桓の大人難楼(なんろう)は、9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏桓の大人蘇僕延(そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏桓の大人烏延は800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。中山太守の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏桓の総指揮者となり、の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪を行なった。霊帝の末年、劉虞が幽州のに任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子の楼班は年が若く、従子の?頓に武略があったので、?頓が代わって立って、三王の配下を統括した。人々はみな彼の命令をよく聞いた。袁紹公孫?と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、?頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫?を攻撃し、これを打ち破った。袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して?頓・難楼・蘇僕延・烏延に印綬を与えて、それぞれ単于の称号を与えた。

のちに楼班が成長すると、峭王(蘇僕延)はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、?頓を王とした。?頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の閻柔は若い時捕らえられて烏桓と鮮卑のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、護烏桓校尉の?挙を殺すと、自ら護烏桓校尉の官に就いた。袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに袁紹の三男である袁尚曹操に敗れて?頓のもとに逃げ込むと、?頓の力を頼んで冀州奪回を目論んだ。ちょうどその頃、曹操は河北を平定し、閻柔は鮮卑と烏桓を引き連れて曹操のもとに帰順した。そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏桓校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり上谷郡寧城で職務にあたらせた。

建安11年(206年)、曹操は自ら柳城の?頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。袁尚は?頓とともに兵を率いて凡城に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に?頓の首を取り、死者は野を埋めた(白狼山の戦い)。速附丸・楼班・烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。これらの者たちを、幽州并州で閻柔の配下にあった烏桓1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、曹操の軍に加わらせた。こうして三郡の烏桓は騎兵としての名が天下に聞こえた。
魏の時代

景初元年(237年)秋、幽州刺史?丘倹(かんきゅうけん)を遣わし、多くの軍団を率いて遼東を討たせた。右北平烏桓単于の寇婁敦(こうろうとん)と遼西烏桓都督・率衆王の護留とは昔、袁紹に従って遼西に逃亡してきたのであるが、?丘倹の軍が来ると聞いて、配下の5000余人を引き連れて降伏した。寇婁敦は弟の阿羅槃(あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。朝廷は、寇婁敦の配下の主だった指揮者30余人を王に封じ、輿(こし)や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。
習俗

烏桓は騎射(騎乗したまま矢を放つこと)に巧みで、水や牧草を追って遊牧を行い、定住地はない。穹廬(きゅうろ:ゲル)を家とし、入口はみな太陽の方向(東)に向ける。鳥獣を狩りし、肉を食べ酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、獣の毛で着物を作る。若者が貴ばれ老人は賤しめられ、その性格は乱暴で、腹を立てれば父や兄をも殺すが、母親には決して危害を加えない。なぜなら、母親には母方の一族がいるが、父や兄は自分と同族で、彼らを殺しても報復をする者がいないからである。勇敢壮健な者で互いの訴えや争いごとを裁いてゆける者を選んで大人(たいじん:部族長)とするのが通例である。邑落ごとに下級の統率者がいるが、世襲ではない。数百から数千の落(らく:集落の最少単位で、約2?3戸20数人ほど)が集まって一つの部族を作っている。大人が人を集める時には、木に刻み目を入れてしるしとし、邑落(ゆうらく:落が20数戸集まり、人口約百十数人ほど)の間を回す。文字はないが、部族民は決して大人の召集を間違えることはない。定まった姓氏はなく、大人や勇者の名を姓とする。大人以下、それぞれに牧畜を仕事とし、徭役(ようえき:土木工事)にかり出されることはない。
結婚

彼らが結婚するときにはまず、ひそかに情を通じて女を奪い去ってゆく。半年あるいは100日も経ってから、仲人をやってを贈物として嫁取りの礼を行う。婿は妻について妻の実家に入り、妻の家の者には誰であろうと、朝ごとに拝礼を行う。しかし自分の父母を拝礼することはないのである。妻の家のために下男の仕事を2年間すると、妻の家のほうでは手厚い贈物をして娘を送り出す。その際の住居や品物は、すべて妻の家が整える。こうしたことから彼らの習わしとしてすべてのことが婦人の指図で決められるが、ただ戦闘に関することだけは、男子自らが決定を下す。父と子、男と女が、向かい合って立てひざで座る。みな頭を剃っていて、この方が軽くてよいらしい。婦人は嫁入りするときになって、髪をたくわえはじめ、分けて髻(もとどり)に作り、そこに句決(こうけつ:帽子の一種)をつけ、それをや碧玉で飾る。父や兄が死ぬと、その残された妻を自分の妻とし、あるいは嫂(あによめ)とする(レビラト婚)。亡夫に弟がなく娶ってもらえぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯叔の次妻となる。彼女が死ねば、元の夫と一緒に葬られる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef