烏山藩
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烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山城(現在の栃木県那須烏山市城山)に藩庁を置いた。豊臣大名として当地に移された成田氏に始まり、江戸時代中期まで堀氏板倉氏那須氏ほか数家が交代した。1725年大久保常春が入り、以後は大久保氏3万石の譜代藩として廃藩置県まで存続する。廃藩置県後は烏山県(からすやまけん)となった。
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}宇都宮黒羽大田原福原
(那須藩)真岡桜町烏山 関連地図(栃木県)[注釈 1]
前史

戦国時代烏山城は那須地方の名族那須氏の拠点であった[1][2][3]天正18年(1590年)、那須資晴豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、大名としての存続が認められず改易された。ただし、資晴やその子の那須資景は知行地を与えられて武家としての命脈を保ち、資景は江戸時代はじめに大名に復帰することとなる(那須藩)。

那須氏が改易されたのち、ごく短期間(2か月程度という)ながら織田信雄が2万石で烏山城に入ったことがある[4]。尾張・伊勢・伊賀120万石の大名であったところから、秀吉の怒りを買っての大幅な減封であり[4]、配流であった[2]、あるいは配流同然であった[4]ともされる。信雄は烏山で剃髪して常真と号したが、天正19年(1591年)に秋田への転封を命じられた[4]天性寺には、信雄が残したものと伝えられる織田信長の位牌がある[4]
成田氏の時代

天正19年(1591年)、成田氏長が烏山城主となり2万石を治めることとなった。豊臣大名として入った成田氏が関ヶ原の合戦を越えて近世大名になったことから、「」の定義の仕方によって「烏山藩の立藩」や「初代藩主」の記述は異なることがある。氏長の入封をもって烏山藩の立藩とし[2]、氏長を初代藩主と数える事典類がある[2]一方、関ヶ原の合戦後に旧領を安堵されたことをもって烏山藩の立藩とし[5]、泰親(長忠)を初代藩主とする事典類もある[6]

成田氏はかつて武蔵国忍城を本拠とし後北条氏に従属していた国衆である。小田原征伐の際、当主の氏長は小田原城に籠城し[7](当主不在の忍城における籠城戦も著名である)、戦後は会津の蒲生氏郷に預けられていたが、許されて烏山城の城主となった[7]。氏長は歌学を学び連歌を能くした人物で、烏山の支配は弟の成田泰親(長忠)に委ねて京都で暮らしていたという[7]。文禄4年(1595年)12月[注釈 2]に氏長は京都で没し[7]、長忠が遺領を継いだ[6]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長忠は東軍に与し、在国して上杉景勝に備えた戦功を賞されて、1万7000石を加増され、合計3万7000石の大名となった[2]大坂の陣でも武功を挙げたが、元和2年(1616年)12月18日、長忠が死去した。長忠の長男重長はさきに死去しており、二男の泰之(氏宗)が跡を継ぐが[8]、この過程で家督を巡る争いが生じ、2万7000石の減封処分となる[8](幼少が理由とされたともいう[5])。元和8年(1622年)に氏宗が急死し[8]、無嗣を理由として廃藩となった[8][2]
松下重綱の時代

元和9年(1623年)3月15日、常陸国小張藩から松下重綱が2万800石で入る。松下重綱は松下之綱の子で、加藤嘉明の娘を正室に迎えていた。結果として重綱の烏山在城は4年と短かかったが、烏山領の検地に着手して次の堀氏に引き継いでいる[9]

寛永4年(1627年)1月に会津藩蒲生忠郷が死去すると、会津には加藤嘉明が40万石で入封した[10]。この際、娘婿の松下重綱は加藤嘉明の与力大名に位置づけられ、3月14日に陸奥国二本松藩に5万石で移封となった[10]。なお、重綱は同年10月に没する[10]
堀氏の時代堀親昌

寛永4年(1627年)、下野国真岡藩で1万7000石を領していた堀親良が、加増を受けて2万5000石で入る[11]。寛永12年(1635年)には全領検地が実施された[2]

親良は寛永14年(1637年)5月13日に死去し、跡を堀親昌が継いだ。この際、弟2人に分知を行っており、領地は2万石となった[12][11]。寛永15年(1638年)に初めて領地入りしている[11]

慶安3年(1650年)には親昌の妹・六姫が、生後間もない子を残して自害するという事件が発生している[13][14][注釈 3]。六姫は同族の家老・堀新左衛門重親[注釈 4]の嫡男である左近に嫁いだが、夫と義母によって身に覚えのない不義密通の疑いをかけられ[14]、激しい虐待を受けたため[13]、無実を訴える遺書を残して自害した[14]


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