烏?郷
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金門県 烏?郷別称: 離島の中の離島
烏?嶼の軍事施設と烏?百年燈塔
地理

右上が烏?郷(金門県行政区分図)

座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度59分28.1秒 東経119度27分15.1秒 / 北緯24.991139度 東経119.454194度 / 24.991139; 119.454194
面積:1.2000 km2
各種表記
繁体字:烏?
日本語読み:うきゅう、おきゅう
?音:W?qi?
通用?音:Wuciou
注音符号:? ???
片仮名転写:ウーチウ
台湾語:O?-khiu
客家語:Vu-hiu
?仙語:O-ku
行政
行政区分:
上位行政区画: 金門県
下位行政区画:2村2隣
烏?郷長:蔡永富
公式サイト:烏?郷公所
情報
総人口:666 人(2023年3月)
世帯数:132 戸(2023年3月)
郵便番号:896
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烏?郷のランドマーク

烏?郷(ウーチウ/うきゅう-きょう)は、中華民国金門県。三つの島嶼により構成され、国共内戦下においては金門島・馬祖島と並んで対立の最前線の島であった。本来福建省?田県の管轄であったが、国共内戦の結果、中華民国が?田県の支配権を喪失したことから、金門県の代理管轄下に入り現在に至っている。中華民国で最小の自治体である。
地理.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}烏? 烏?の位置図

烏?は、中華人民共和国福建省?田市の東南に位置し、?洲島から東20海里の位置に存在している。
行政区画


大?村
、小?村

歴史

台湾海峡海路の中継地として17世紀から各国の船舶がこの海域を航行し、当時の海図には烏?嶼 (Ockseu Island) と記載されている。

1840年アヘン戦争後、烏?は開港された廈門および福州の中間地点であることから航路上での重要な位置を占めるようになった。1874年にはイギリス技師ヘンダーソン(David Marr Henderson)とロピナルド(John Ropinald) によって灯台が建設された。

1943年から1945年にかけて、烏?は日本軍によって占拠された。当時、烏?は?洲島と同じく第四行政督察区が管轄する行政区域であった。1949年、大陸の中国国民党率いる中華民国政府が崩壊すると、烏?は一時無政府状態となった。

当時の烏?は灯台の保守要員とその家族、そして出漁に際して立ち寄る漁民程度しか立ち入らないのどかな島であったが、国民党兵が流入してくると状況が一変した。元来物資が豊富でない島での急激な人口増加は食料をはじめとする物資が欠乏し、また本島との連絡手段の喪失から、国民党兵による食料強奪や、建造物を破壊しての燃料確保、さらには大陸の商船を襲撃するなど、海賊島の様相を呈するに至った。

1951年アメリカの軍事援助の下、国民党は本島で軍事再編を実施し、烏?でも正規軍に組み込まれ、食料などの物資が提供されることになった。

1954年、中華民国政府は烏?の行政管轄を見直した。元来、最も近い陸地である興化府や?田県に属していたが、同地が中国共産党支配下に置かれたことから、72海里離れているが実効支配をしている福建省金門県の施政下に暫定的に置くことを決定した。この時期の烏?は反共救国軍の前線基地として実質的に国防部によって統治されていた。面積僅か1.2平方キロメートルの島を大?と小?に分割し、軍民を問わず犯罪は軍法会議で処分が決定され、病人は軍医が診断するという体制にあった。
政治
行政

1992年11月7日に正式に戒厳令が解除された後、地方自治が実施されている。1994年1月29日に住民投票が行われ、初めての民選郷長が選出された。
郷長

蔡永富(現職)

歴代郷長

代氏名着任日退任日
第1回楊瑞大
1956年 - 1994年
第2回李毅強1994年 - 2002年
第3回蔡元珍2002年 - 2006年10月
第4回陳興?2006年12月 - 2014年
第5回蔡永富2014年 - 2022年
第6回蔡燕明2023年 - (現任)

この節の加筆が望まれています。

経済

烏?郷の中心となる産業は漁業である。しかし、台中関係が好転した1992年、烏?でも戒厳令が解除された。これにより駐留軍が大幅に削減されて島の状況は一変し、特に経済面では軍人対象の商業活動に大きな影響が出たほか、緊張緩和によって周囲に中国の漁船が押し寄せ、爆弾漁法などで魚を根こそぎ捕獲したため海洋生態系を破壊、その結果漁業資源は枯渇してしまった。

このように経済活動が立ち行かなくなった烏?からは住人の流出が続出した。教育設備、医療設備、就労機会、交通機関のいずれも存在しない状態となってしまい、一時期は総人口50人弱の過疎島になったが、人口は2000年代以降は増加に転じて戻りつつある。

1998年に核廃棄物処理場の設置計画が明らかになったが、環境保護団体の強い反対によって2002年に凍結された。
生活基盤
生活インフラ
水道
水道と電気が烏?における最大の課題であり、以前は雨水に依拠していた。現在では軍により水が供給されている。
電力
軍用の発電設備により供給されているため、発電機の連続運転時間が8時間と限定され、1日に3度の停電がある。そのため電化製品の寿命に影響が出るなどの生活上の問題が発生している。
医療

軍の診療所があるのみで、重い症例の場合はヘリコプターで台湾本土の国立病院に運ばれる。
教育

かつては金門県立五秋小学校があったが、2009年に廃校となり、2020年現在教育機関不在の状態である。
交通

大?村と小?村にヘリポートがあるものの、現在烏?への定期便空路は開設されておらず、交通は海路のみである。

台中港から月3便の定期船が軍艦を使用して運航されている。軍用路線のため運賃は無料である。現在、主に使用される軍艦は陽字号で、所要時間5?6時間となっている。但し軍事管理のために、非居住者が入るには許可を必要とする。以前は高雄港を経由する中字号という軍艦が運航されていたが、高雄?烏?間でも24時間を要し、更に便数も月に1便のみであったことを考えれば格段の利便性向上となっている。

烏?港は水深が浅く、喫水の深い軍艦では座礁の恐れがあるために満潮時刻に到着するダイヤとなっており、満潮時でも直接接岸できないため、ランチ艇で艦と桟橋を連絡している。

種別路線名称その他
港湾烏?港台中港への便船がある

観光


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