火野葦平
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火野 葦平
(ひの あしへい)
アサヒグラフ』 1952年11月26日号より
誕生玉井 勝則
(1907-01-25) 1907年1月25日
福岡県遠賀郡若松町(現・北九州市若松区
死没 (1960-01-24) 1960年1月24日(52歳没)
福岡県若松市(現・北九州市若松区)
職業小説家
言語日本語
最終学歴早稲田大学英文科中退
代表作『糞尿譚』(1938年)
麦と兵隊』(1938年)
土と兵隊』(1938年)
花と竜』(1953年)
『革命前後』(1960年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1938年)
朝日文化賞(1940年)
日本芸術院賞(1960年)
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火野 葦平(ひの あしへい、1907年明治40年〉1月25日 - 1960年昭和35年〉1月24日)は、日本昭和戦前戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。

早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。
概要

自伝的作品『花と竜』などに書かれているように、父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身。

旧制小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)卒業、早稲田大学英文科中退。『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、『土と兵隊』『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなった。東京と福岡に本拠を二分し、東西を往復しての執筆活動で多忙を極めた[1]。著述業と共に「玉井組」2代目も務める。

『麦と兵隊』など兵隊小説作家として知られるが、一方で河童の登場する作品が多く残る。その数、小説、随筆、童話などで100点を超えるという。芥川龍之介を敬愛しているが、芥川が「フィクションによってしか語れぬ事実がある」と、河童を通して社会を風刺したのに対し、葦平は「私の描く河童が理屈っぽく、風刺的に、教訓的になることを警戒していた」と書いている。また、「河童が私の文学の支柱であることになんの疑いもない」と書いている[2]

三男・玉井史太郎は、若松区にある旧宅を利用した記念館「河伯洞」(1999年1月に開館)の館長を務めていたが、2021年(令和3年)1月5日に病没した[3]

なお、妹の息子(火野の甥にあたる)は、ペシャワール会の医師中村哲である。
経歴

1907年(明治40年)1月25日、福岡県若松市(現在の北九州市若松区新仲町(現在の白山1丁目旧大字修多羅すたらの一画)に玉井金太郎、マンの長男として出生[注 1]。本名、勝則。父は、石炭仲仕玉井組の親方、ほかに弟二人、妹七人がある。1923年(大正12年)16歳、小倉の県立小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)四年を修了し、早稲田第一高等学院に入学。1926年(大正15年・昭和元年)19歳、4月、早大英文科に入学[4]中山省三郎寺崎浩田畑修一郎らと同人誌「街」を発行。1927年(昭和2年)20歳、7月詩誌「聖杯」を中山省三郎・五十嵐二郎らと刊行。1928年(昭和3年)21歳、2月、福岡歩兵24連隊に幹部候補生として入隊する。レーニンの訳本を発見され、一階級さげられ、伍長で12月除隊。父は玉井組を継がせようとし退学届を出す。文学書を売り払い、左翼関係書を耽読する。1929年(昭和4年)22歳、1月、出初式にはじめて玉井組の印半纏を着用し、「文学廃業」を知人に宣言する。1930年(昭和5年)23歳、8月、日比野良子と結婚。同年9月には長男闘志が生まれた[4]。1931年(昭和6年)3月、若松港沖仲仕労働組合結成し、その書記長となる。8月、洞海湾荷役のゼネストを決行する。1932年(昭和7年)25歳、1月に上海事変勃発し、苦力のストライキがおこる。玉井組が代わって上海に派遣される。帰国後、特高に逮捕されたのを機に、日本共産党に疑惑を抱き、転向を決心し、文学への関心ふたたびたかまってくる。この年長女美絵子生まれる。1934年(昭和9年)27歳、10月、劉寒吉岩下俊作らの詩誌「とらんしっと」に参加。第17号に火野葦助の名で、20号より火野葦平と改め、散文詩を寄稿する。この年、次男英気生まれる。1937年(昭和12年)30歳、10月「糞尿譚」(久留米の同人誌「文学会議」)を発表[4]。9月日支事変のため10日に応召する。10月、杭州湾に敵前上陸し、12月、杭州に入城する。この年、三男史太郎生まれる。1938年(昭和13年)31歳、2月、「糞尿譚」により第六回芥川賞を受賞する[5]

芥川賞選考委員の川端康成は「少し大袈裟に云えば、大旱の雲を望むが如くで、その多少の欠陥は二の次とし、先ず喜んで「糞尿譚」を推した。」「芥川賞としては、火野君を選ぶのが面白いと考えたのである。優劣論ではない。」と選評している[6]

1938年(昭和13年)3月、小林秀雄(批評家)が「文藝春秋」特派員として中国に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学教授に昇格した[7]

小林秀雄は「続いて火野伍長、S部隊長の挨拶があり式を終わった。いかにも陣中らしい真面目な素朴な式であった。僕は恐縮したが、嬉しかった。火野君も大変喜んでくれた。二人は直ぐ古くからの友達の様になった。火野君は見るから九州男児と言った面魂の、情熱的な眼つきをした沈着な男である。」と文章を残している[8]

直木三十五賞を受賞した古川薫は、少年時代の1939年(昭和14年)春ごろ、火野葦平が山口県宇部市渡辺翁記念会館で講演したのを見にいっていた。「軍国の気風充満する戦時ではあったが、ひとりの下士官が軍装で演壇に立つ風景はやはりめずらしく、それが当時の火野さんの立場を象徴していた。」「今にして思うと、火野さんは軍から「人寄せパンダ」よろしく、目いっぱい利用された「悲しき兵隊」だったのだ。」と解説している[9]

その後、報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。

戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描いた。戦地から送った1938年の徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となる。『麦と兵隊』は英訳され、それを読んだパール・バックも賞賛した[10]

1939年11月に退役して帰国。やはり従軍していた中野実ら従軍芸術家と「文化報国会」を結成[11]。帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。

1941年(昭和16年)には大連旅順奉天新京ハルピンハイラルチチハル黒河など各地に赴いている[4]


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