火葬
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火葬(かそう)とは、葬送の一手段として遺体焼却することである。また、遺体の焼却を伴う葬儀のことも指す。

火葬を行う施設を火葬場と呼ぶ。
各文化圏における火葬
日本における火葬江戸時代の火葬(1867年刊『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より)

火葬は、日本では最も一般的な葬法である。
歴史

仏教伝来前の火葬例も確認されており、縄文時代の遺跡からも、火葬骨が出土している[1][2][3][4]

弥生時代以降の古墳の様式の一つに「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められている。それらは6世紀後半から出現しており、最古のものは九州で590年±75年の火葬が確認されている。2014年(平成26年)2月、長崎県大村市の弥生時代後期(2世紀頃)の竹松遺跡における長崎県教育委員会の発掘調査により、火葬による埋葬と見られる人骨が発見されている[5]

古墳時代にかけて古墳の造営がピークを迎えたが、仏教の受容と大化の改新により火葬への切り替えが進む[6][7]。大化2年(646年)には薄葬令が発布された。文献記録上、日本で最初に火葬された人物は仏教道昭元興寺の開祖)で、文武天皇4年(700年)に火葬された。これについては『続日本紀』にやや長い記事があり(wikisouce)、72歳で没した際に遺言によって粟原寺で火葬されたという。『続日本紀』には「天下の火葬これよりして始まる」と記述されている。浅香勝輔は先行する火葬事例を確認しながらも「8世紀以降、仏教文化とともに、わが国の火葬習俗は始まったとするのが穏当」としている[8]。現代でも「火葬にする」の意味で用いられる言葉として「荼毘に付す」がある。この荼毘(だび。荼?とも)は火葬を意味するインドの言葉(パーリ語: jh?peti「燃やす」)に由来し[注釈 1]、仏教用語である。

『続日本紀』によると、最初に火葬された天皇は、大宝2年(702年)に崩御し、(もがり)の儀礼の後、大宝3年(703年)に火葬された持統天皇である。

一般的には火葬の習俗はまず天皇や貴族、地方豪族などの上層階級から広がっていった、と説明されている[8][9]。なお、大宝元年(701年)編纂の『大宝律令』には、行軍中の兵士や防人が死亡した際には火葬するという規定が含まれている[注釈 2]

万葉集』には隠口の 泊瀬の山の 山際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ ? 柿本人麻呂

短歌で詠まれ、最愛の人を送る、最後の別れの煙が「いさよふ雲」であり、それはとりもなおさず妹と認識できると歌われており、万葉人特有のゆかしさと優しさが感じられると、日本での近代火葬炉開発の元祖である鳴海徳直は述べている[11]

一方、土葬も廃れたわけではなく、平安時代以降、皇族貴族、僧侶などに火葬が広まった後も、土葬が広く用いられていた。仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも死体を棺桶に収めて土中に埋める土葬であった。儒教の価値観では身体を傷つけるのは大きな罪であったほか、人口の急増で埋葬地の確保が難しくなる明治期に到るまでは、少なくとも一般庶民にとっては土葬の方が安上がりだったためとの説がある。比熱の高い(=温度が上がりにくい)水分や分子構造が巨大で複雑なタンパク質を多量に含んだ遺体という物質を焼骨に変えるまで燃やすには、生活必需品としても貴重だったを大量に用いる必要がある。また、効率よく焼くための高度に専門的な技術が求められるため、火葬は費用がかかる葬儀様式であった[9]

明治時代に入ると、東京の市街地に近接する火葬場の臭気や煤煙が近隣住民の健康を害している事が問題になり、警保寮(警視庁の前身)が司法省へ火葬場移転伺いを出した。この問題に際し明治政府神道派が主張する「火葬場移転を検討するのは浮屠(仏教僧)が推進する火葬を認めたことになる。火葬は仏教葬法であり廃止すべき」との主張を採り、東京府京都府大阪府に土葬用墓地は十分に確保可能か調査するよう命じた。土葬用墓地枯渇の虞は低いとの報告を受けた直後の明治6年(1873年)7月18日に国家神道による挙国一致を目指した神仏分離令に関連して火葬禁止令(太政官布告第253号)を布告した。

だが、都市部では間もなく土葬用墓地が枯渇し始めて、埋葬料が高騰したり埋葬受け入れが不可能となる墓地も出てきたりして混乱を招いた。仏教徒や大学者からは、火葬再開を求める建白書が相次ぎ、政府内部からも火葬禁止令に反対する意見が出て、明治8年(1875年)5月23日には禁止令を廃止している[12]

その後、明治政府は火葬場問題から宗教的視点を排して、公衆衛生的観点から火葬を扱うようになった。伝染病死体の火葬義務化に加えて、土葬用墓地の新設や拡張に厳しい規制を掛け、人口密集度の高い地域には、土葬禁止区域を設定するなどの政策を取った。1896(明治29)年のデータでは火葬率は26.8%で、大都市部と浄土真宗門徒の多い北陸地方で火葬が多い[13]大正時代より地方公共団体が火葬場設営に積極的になり、土葬より火葬の方が費用や人手が少なくて済むようになったこともあり、現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率である。
背景高い煙突を持たない近代的な火葬場(1993年 宮本工業所製)

土葬習慣が根強い一部地区の住民、火葬を禁忌する宗教宗派の者、大規模災害により火葬場が使えない場合を除いて、ほとんど全ての遺体は火葬される。その理由としては以下の点が挙げられる。

公衆衛生の観点から土葬よりも衛生的であるため。伝染病等で死んだ場合はもちろんだが、通常の死亡原因による埋葬であっても、土中の微生物による腐敗が進んでも社会に影響を与えないためには衛生上、広域な墓域を必要とする。

強い信仰を持たない人が多く、埋葬の方法にこだわりがない。現代の日本では、火葬がごく普遍的なものとなっており、世間体にも無難なものとして受け入れられる。

日本の葬儀の8割以上が仏式であること[14]

都市に人口が集中しており、その都市部では遺体そのまま埋葬(土葬)が条例により禁止されているか、土葬を許可されている墓地を確保することが極めて困難であること。

墓は家族を単位として考える人が多い。そのため、先祖と同じ墓に入れるように体積を減らすため火葬する。

しかし日本においても火葬を忌む場合はある。

神道家の一部には火葬を仏教徒の残虐な葬儀法として禁忌する思想がある。

琉球諸島は風葬と洗骨葬の文化があったため火葬率が低かった。20世紀に火葬が定着し現代ではほぼ火葬である[15]

世界的にみて、イスラム教キリスト教に、火葬を禁忌とする戒律を有する文化が少なくない(後述)。近年では日本国内の日本人・外国人の中でムスリムの人口が増加しており、火葬が主流の日本国内で暮らす彼らは、山梨県甲州市北海道余市町の2箇所しかない土葬が可能な施設にあたらなければならない[16]

なお、ムスリムは死後24時間以内に埋葬を終えなければならないが[17]、日本国内では下記するように墓地、埋葬等に関する法律で、一部の例外に該当しない限り、死亡後24時間は埋葬ができない。ましてや土葬可能な施設が遠隔地にあることが殆どなので、埋葬までに死後数日、墓地を確保できていない場合は、それ以上をどうしても要してしまう状況にある。
手続

日本では、墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)第3条の規定により、死体もしくは妊娠7か月以上の胎児は、原則として死後もしくは死産後24時間以内は、火葬および土葬してはならない。

但し、妊娠6ヶ月以下の胎児は対象外であるほか、感染症法30条の規定により、同法で定められている一類から三類までの感染症や、新型インフルエンザ新型コロナウイルス等の感染症による死亡の場合は遺体からの感染を防止する観点から、24時間以内の火葬が許可されている。


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