この項目では、新潟県の山について説明しています。徳島県の山については「火打山 (徳島県)」をご覧ください。
火打山
高層湿原の天狗の庭から望む火打山
標高2,461.77[1] m
所在地 日本
新潟県糸魚川市、妙高市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度55分22秒 東経138度04分05秒 / 北緯36.92278度 東経138.06806度 / 36.92278; 138.06806
火打山(ひうちやま)は、妙高戸隠連山国立公園内の新潟県糸魚川市と妙高市にまたがる標高2,462mの頸城山塊の最高峰である[3][4]。日本百名山[5]、及び花の百名山[注釈 1][6]に選定されている。 東西に緩やかな稜線を持つ山で、頂上付近は傾斜がさほど急でないため冬期には雪がべったりとついて真っ白な姿を見せる。主峰の他、西側にやや低い影火打(かげひうち)の峰がある。山容が火打石に似ていることが、山名の由来であるとする説がある[7]。江戸時代の『越後野志』に山名の由来が記されている[8]。難波山の南、妙高山の北にて両山の中間に在り、数峰の嶮厳並び列れり、宛も燧石を並べ立つるが如し、故に名付くと云う ? 『越後野志』(江戸時代) 火打山は活火山の焼山と成層火山の妙高山に挟まれた穏やかな山容の山であるが火山ではなく[9]、堆積岩から海生動物類の化石が発見されている[8]。小蓮華山等の飛騨山脈に属する山を除けば、新潟県では最も高い。 東隣の妙高山に比べ、ハクサンコザクラ、ミョウコウトリカブト[14]、ワタスゲなどの高山植物が豊富である[6][15]。高谷池付近には天狗の庭を始めとする池塘の湿原があり、登山シーズンには多くの登山者が訪れる。山頂付近はハイマツ帯で、その南南東稜線上には雷鳥広場(雷鳥平)と呼ばれる場所があり、付近はライチョウの生息地となっている[15]。ライチョウは新潟県のレッドリストの絶滅危惧I類の指定を受けており[16]、周辺の山域は日本の生息地の北限となっている[9]。ニホンカモシカ、ツキノワグマ、オコジョ、オオタカなどの生息も確認されている[9]。 一般的には、南側の笹ヶ峰ビジターセンター[17]とキャンプ場が併設されている笹ヶ峰より往復や、妙高山と併せて登られる。
概要
歴史
江戸時代末期 - 高田藩の許可を得て南山麓の笹ヶ峰地区に開墾のために入植者が入った記録が残されている[9]。
1864年(元治元年) - 『越後土産(二編)』の越後の山の番付で火打山は、下位の前頭三段目とされた[10][注釈 2][5][9]。
1904年(明治37年) - 南山麓に笹ヶ峰牧場が造られた[11]。
1913年(大正2年) - 笹小屋が造られた[11]。
1917年(大正6年)7月27日 - 日本山岳会の田中薫らが頚城三山を縦走して登頂[12]。
1928年(昭和3年) - 京大ヒュッテの山小屋が造られた[9]。
1930年(昭和5年) - 営林署小屋(現在の高谷池ヒュッテ)が建てられた[9][11]。
1956年(昭和31年)7月10日 - 上信越高原国立公園の特別保護地区に追加指定された[13]。
1966年(昭和40年)黒沢池ヒュッテが建てられた。
昭和30年代 - 山頂の三角点の標石の建て替えの際に、鎌倉時代のものと思われる2体の銅製の十一面観音懸仏が発掘された[8]。
1979年(昭和54年)10月 - 南麓に関川水系の笹ヶ峰ダムが完成。
2015年(平成27年)3月27日 - 上信越高原国立公園から分離した妙高戸隠連山国立公園内となる。
環境高谷池周辺の高層湿原などに生育するハクサンコザクラ
登山高谷池畔にある山小屋の高谷池ヒュッテとキャンプ指定地