火垂るの墓
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火垂るの墓
訳題Grave of the Fireflies
作者
野坂昭如
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『オール讀物1967年10月号
出版元文藝春秋
刊本情報
刊行『アメリカひじき・火垂るの墓』
出版元文藝春秋
出版年月日1968年3月25日
装幀永田力
受賞
第58回(昭和42年度下半期)直木賞
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『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。兵庫県神戸市西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している作品。
概要

『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られている。特にアニメーション映画は、戦災孤児が直面する厳しい現実を一切の妥協なしに描いたことから、戦争の酷さを後世に伝える作品として高く評価された。併せて、この映画で小道具として登場したサクマ式ドロップスも人気を博した[要出典]。日本では他にもテレビドラマ化、実写映画化が行われた。イギリスでも実写映画化が予定され、撮影は2014年から行われるはず[1]だったが、結局、実現しなかった。
作品発表までの経緯

1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。

作品は、刊行時に結末部に変更が加えられており、末尾の一段落が削除される一方、主人公の少年の遺体がほかの浮浪児たちの遺体とともに「布引の上の寺」で荼毘に付された日時[注釈 1]が加えられている[2]。削除された一段落には、布引の谷あいから飛び立った無数の蛍が、打ち捨てられた妹の骨のまわりを飛び交うという文章があり[3]、妹の鎮魂にかかわる表現がより強く描かれていた[4]。このためこの改筆は作品全体の評価や解釈にも関わるという指摘がある[4]。直木賞の選考における海音寺潮五郎の選評(結末が明治調にすぎる、というコメントを含む)を受けたものとも説明されるが[5]、野坂個人の妹に対する鎮魂と悔悟に根差した兄妹固有の物語であったものを、主人公を多くの戦災孤児たちの一人と描くことで、戦災孤児たちの鎮魂の物語として拡大したという解釈もある[6]
作品構成・文体

文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている[7][8]

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻きの中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている[7]
作品背景神戸大空襲後の神戸市街

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しいの思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10カ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[9][10]

ただし、「空襲で父母をなくした」は脚色であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は重傷を負いながらも一命を取り留めており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった[10]

野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6カ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[10]

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[11]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[12]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[13]。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという[13]

野坂は妹の恵子について次のように述べている。一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。 ? 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」[10]
あらすじ

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR神戸線三ノ宮駅構内で、14歳の若さで衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中にはわずか4歳で衰弱死した妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げていった。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりにがひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 2])に住んでいた清太とその妹・節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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