火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で、幕府常備軍の御先手弓・筒之頭から選ばれた。御先手頭の職務との兼役であるため「加役」(かやく)とも呼ばれ、時代劇などでは「火盗改」(かとうあらため)、あるいは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。 明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装強盗団であることが多く、それらが抵抗した場合に非武装の町奉行では手に負えなかった[1]。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することのできる、近代以降でいう国家憲兵・特殊部隊のような、いわば事実上の準軍事組織として設置されたものである。 初代の頭(長官)として「鬼勘解由」と恐れられた中山勘解由が知られるが、当時は火付改と盗賊改は統合されておらず、初代火付改の中山直房のこととも同日に盗賊改(初代ではない)に任じられた父の中山直守ともいわれる。 決められた役所はなく、先手頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力(5-10騎)、同心(30-50人))がそのまま使われるが、取り締まりに熟練した者が、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることがあった。町奉行所と同じように目明しも使った。1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで長官を務め、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公となった長谷川宣以が有名である。 火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。 なお、火付盗賊改方長官は矯正授産施設である人足寄場も所管したが、初代の人足寄場管理者である長谷川宣以以外は、火付盗賊改方とは別組織の長である寄場奉行として、町奉行の管轄下に置かれた。 火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦なく検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所の同心・与力からも嫌われていた記録が見られる。慕われていたのはごく一部であった(一例として、先述の長谷川宣以は「本所の平蔵さま」「今大岡」と庶民から呼ばれ、人情味があるとして人気が高かった)。このためか、時代劇において悪役として扱われることも少なくない。 これらの弊害により、1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は廃止され、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)の管轄になるが、赤穂事件があった1702年(元禄15年)に盗賊改が復活し、博打改が加わる。翌年、火付改が復活した。1718年(享保3年)には、盗賊改と火付改は、「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立、加役から専任制になった。博打改は火付盗賊改ができた年に、町奉行の下に移管されている。 本役加役(任期1年)2名、当分加役(任期半年)2名が通例であったという。当分加役は火災の多い秋冬(9月 - 3月)に任命されていた。この他、江戸市中で打ちこわしが多発した際など、騒然とした状況下において増役として同役が増員された例がある。 代氏名任期
歴史
設置の経緯
組織
廃止と再設置
歴代の火付盗賊改方頭
1水野守正
2岡野成明
3大嶋義近
4筧正明
5久永重之