火中出産
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歌川国芳画『日本国開闢由来記』巻二「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)降臨於筑紫日向之高千穂?触峰図(つくしひむかのたかちほのくしふるがたけにあまくだりたまふづ)」

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫族邇邇芸命(ににぎのみこと)が、高皇産霊尊の意嚮によって[1]、もしくは天照大御神神勅を受けて[2]葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫日向[3][4]高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと[注 1]。邇邇芸命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々[注 2]を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。
古事記
天孫邇邇芸命の誕生

天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中国矣 故汝当依命下降而統之」『古事記』)と言った。

天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者将降装束之間 生一子 其名天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命 此子応降也」『古事記』)と答えた。邇邇芸命は、天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。

それで二神は、邇邇芸命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。
猿田毘古

邇邇芸命が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。
天孫降臨

邇邇芸命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。

さらに、天照大御神は三種の神器と思金神手力男神天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

八咫鏡と思金神は伊勢神宮に祀ってある。登由宇気神は伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県(さなながた)に鎮座する。

天児屋命は中臣連(なかとみのむらじ)らの、布刀玉命は忌部首(いむべのおびと)らの、天宇受売命は猿女君(さるめのきみ)らの、伊斯許理度売命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの、玉祖命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの、それぞれ祖神である。

邇邇芸命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

天忍日命天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。邇邇芸命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
猿田毘古と天宇受売

邇邇芸命は天宇受売命に、猿田毘古神を送り届けて、その神の名を負って仕えるよう言った。それで、猿田毘古神の名を負って猿女君と言うのである。

猿田毘古神は、阿耶訶(あざか)で漁をしている時に比良夫貝に手を挟まれて溺れてしまった。底に沈んでいる時の名を底度久御魂といい、泡粒が立ち上る時の名を都夫多都御魂といい、その泡が裂ける時の名を阿和佐久御魂という。

天宇受売命が猿田毘古神を送って帰ってきて、あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇芸命)に仕えるかと聞いた。多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。それで今でもナマコの口は裂けているのである。
木花之佐久夜毘売と石長比売

邇邇芸命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇芸命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇芸命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。

大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけひ)をしたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」(「我之女二並立奉者有因 使石長姫者 天神御子之命雖雪零風吹 恒可如石而常堅不動坐 亦使木花之佐久夜姫者 如木花之栄栄坐 因立此誓者而使二女貢進 今汝令返石長姫而独留木花之佐久夜姫 故今後天神御子之御寿者 将如木花之稍縦即逝矣」『古事記』)と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。
日本書紀

(注)日本書紀の本文と一書(あるふみ)について:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。
本文

『日本書紀』の第九段本文では、天照大神の子(みこ)正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)が、高皇産霊尊(たかみむすひ)の女(むすめ)幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶りて天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ)を生む。


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