灘中学校・高等学校(なだちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市東灘区に所在し[1]、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校[2]。
高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第1学年から混合してクラスを編成する併設混合型中高一貫校[3]。科目によっては第1学年の時は別クラスを編成して授業を行う。 1928年(昭和3年)開校[3]。設置者は学校法人灘育英会[3]。校舎のうち、現在も使用中の本館[4]は国の登録有形文化財に登録されている[5]。 (沿革節の主要な出典は公式サイト[3]) 灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。 設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校(現:筑波大学)やその附属校(現:筑波大附属中・高)などの学校長職を25年間ほど務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった(この嘉納治五郎の影響で現在でも柔道が全員必修である。[6])。 初代校長は東京高等師範学校の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年(昭和2年)10月24日に設立認可を受け、この日を創立記念日とし、その翌年に開校した。 第二次世界大戦前は柔道部、及び好村三郎(立大)や松尾俊治(慶大)ら東京六大学野球に選手を送り込んでいた野球部の活躍の方が有名であったが、戦後の学制改革を経てからは全国屈指の進学校へと躍進を遂げた。1968年(昭和43年)にはそれまで東京大学合格者数で首位にあった都立日比谷高校を追い抜き、公立校以外で初めて単独での東京大学合格者数首位の座に立った[7]。 制服がない等、自由な校風を特徴としている。校則が存在せず、風紀については生徒の良識に委ねている[2][3]。 設立の経緯から、現在でも中学校および、高校1年次では、柔道が全員必修である[6]。 学年担任制が導入されており、同じ担任団が中高6年間を指導する[2]という、中高一貫教育ならではの教育方法が行われている。
概要
沿革
校風
カリキュラム
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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