灌漑(潅漑、潅?、かんがい、英: irrigation)とは、農地へ水を人工的に供給すること。農作物の増産、景観の維持、乾燥地帯や乾期の土壌で緑化する為に実行される。他にも農業生産において、作物を霜害から守る[1]、穀物の畑で雑草を抑制する[2]、土壌の圧密を防ぐ[3]といった用途もある。対照的に直接的な降雨のみで行う農業を乾燥農業と呼ぶ。灌漑システムは、塵の飛散防止、下水処理、鉱業などにも使われる。灌漑と排水は組み合わせて研究されることが多い。
なお、「灌」「漑」は二文字とも常用漢字の表外字のため、報道では新聞常用漢字表により「かんがい」とひらがなで表示されるのが一般的である。学校の教材等も同様である。
概要用水路による水田灌漑
技術的には、作物・土壌・水の間に適切で有機的な関係を保証する農学的側面、各種の施設・機器を用いて耕地に水を供給し管理する狭義の灌漑技術、水源から水を引く土木工学的側面などがある。農地に対する水管理という点で排水(農地排水)とセットで灌漑排水として扱われることが多い。
また大きなくくりとして畑に水を供給する畑地灌漑と水田に水を供給する水田灌漑に分けられる。また、耕地内で作物に給水することや圃場内で植物に給水することは灌水もしくは水遣りという。
この灌漑が社会発展に果たす役割は非常に大きい。灌漑により、農地の生産性は著しく高まるために、余剰生産物が発生する。余剰生産物は、農業以外で価値を生み出す職業を支え、商工業者や軍隊、王権貴族の生活を支える。このように、灌漑による生産性向上は社会に変革をもたらす。
灌漑の「灌」と「漑」の漢字は共に訓読みで「そそ(ぐ)」と読め、また「水を注ぐ」という意味である。
灌漑の歴史畜力による灌漑(上エジプト、1840年ごろ)カレーズのトンネル内部(中国トルファン市)
農耕の開始によって人口が増加し、国家が形成されるようになると、人々を安定的に統治するために必要な農耕生産の向上が必須課題となり、開墾や干拓、灌漑などさまざまな公共事業が行われ始める。そこでは、常に治水問題と灌漑問題の解決が重要であった。治水問題では洪水などによる水害を防ぐための築堤などの河川整備が、灌漑問題では水源確保のためのため池、堰堤やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの農地整備が相互に関連しながら行われてきた。
中でも灌漑技術は概して水資源の少ない地域において開発され発達してきた技術である。そこでは、主に畑作用水資源の安定的供給による農耕生産の安定性と生産性自体の向上を目的としていた。
考古学調査の結果、紀元前6千年紀ごろからメソポタミア、エジプト、イランといった中東で灌漑が行われていた証拠が見つかっている。それらの地域で自然な降水量だけでは生育できない大麦が栽培されていたことがわかっている[4]。
紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートは、今日も使われている最古の灌漑技法の1つである。この技法はアジア、中東、北アフリカに広まっている。このシステムは多数の井戸と緩やかに傾斜したトンネルで構成され、地下水を灌漑に使用する[5]。
粘土製の壷を周囲につけた水汲み水車(ノーリア)は、水流の力で駆動され(水流がない場合は畜力を使用(サキア))、中国の漢やシリア・イラク・ペルシャ地域で最初に使い始められたとされている。紀元前150年ごろにはその壷に弁がつけられ、水を汲み上げる効率を向上させた[6]。 古代エジプトにおいては麦類を中心とした畑作農業が行われており、紀元前3500年ごろに灌漑が始まっていたと考えられている。その灌漑はナイル川の氾濫を利用した畑作灌漑であった。青ナイル川から流れ込む春季の多量の雨水によってナイル川下流では夏季にはゆっくりと水位が増水し、氾濫を起こす。この氾濫は日本で見られるような濁流で家々を押し流すような氾濫ではなく、ゆっくりと次第にナイルの水が堤防を超え外部に漏れ出るような様子の氾濫である。 この氾濫を耕地に誘導することによって耕地の土壌中に十分な水分が保水されるという湛水灌漑であった。また、ナイルの氾濫水は上流の肥沃な土壌を含んだ泥水で、氾濫によって肥沃な表土が供給された。このため、湛水することによって十分な水が供給されることと流水によって肥沃な表土が運搬されてくることが定期的にあったため乾燥地にもかかわらず塩類集積が起こりにくかったと考えられている。 エジプト第12王朝のファラオアメンエムハト3世(紀元前1800年ごろ)は、ナイル川の氾濫した水を毎年引き込んでファイユーム・オアシスの天然の湖に貯水し、乾期に使用する水とした[7]。 新石器時代以降メソポタミア北部の山麓の傾斜地で天水依存の農業(天水農業)が行なわれていたとされる。しかし、紀元前3000年ごろ、気候の変化によって水源を求めてチグリス・ユーフラテス河の下流平地部へと移住した。 しかし下流の平地部は、上流の山岳地帯での春の雪解け水に起因する、突然の洪水や河川氾濫に見舞われる氾濫原であった。そのため、溢流を制御し、溢流した河川水を蓄えるため池を作り、各耕地に配分する用水路を作る公共事業を行なうことが都市国家の宿命であった。ただし、この水は飲料水等の生活用水にも使用された。 この地域は降水量は少ないものの温暖なため、用水が確保されれば多くの収量を得た。 この灌漑も氾濫水を使用する灌漑であるが、貯水池(ため池)を作り水路で配分する点がエジプトと異なる。そして、ため池や用水路などの農業生産基盤は農地と共にしばしば収奪の対象とされ、騒乱のたびに灌漑排水システムは破壊、そして再建された。また、乾燥と暑熱による水分蒸発によって耕地の塩類集積を招き、生産力が低下して文明の衰退を招いた。 パキスタンおよび北インドのインダス文明は洗練された灌漑と貯水のシステムを発展させ、紀元前3千年ごろのため池や紀元前2600年ごろの用水路などが見つかっている[9][10]。大規模農業が行われ、灌漑用の用水路のネットワークが張り巡らされていた。 近世になり英領インドでは、1842年から12年の歳月をかけ上ガンジス運河を開削し、ドアブ地方を一大穀倉地帯へと発展させた。このガンジス川を利用した大規模灌漑用水路はインド独立後も継承され、現在でも新規プロジェクトが展開されている。ガンジス用水路は北インド主体で行われたが、南インドでは1898年に来日したマイソール藩王国の大臣モークシャグンダム・ヴィシュヴェーシュヴァライヤがインド初の計画経済開発を唱えた『インドのための計画経済』に基づき独自に灌漑事業を実施した。 スリランカでは紀元前300年ごろから灌漑が始まり、その後千年以上に渡って開発が行われたため、古代世界でも最も複雑な灌漑システムとなった。地下水路(ビソーコトゥワ)だけでなく、シンハラ人は貯水のための人工的なため池(パタハ)も作った。灌漑の面では非常に優れた技能を発揮しており、アヌラーダプラやポロンナルワでは古代からの灌漑システムが今も機能している。中世の王 Parakrama Bahu 西ヨーロッパでは長らく灌漑設備を設けるほど技術が発達しなかった。
エジプト
メソポタミア
南米 では、紀元前4千年紀ごろから灌漑用用水路があったことが放射性炭素年代測定により示されたと主張する考古学者もおり、紀元前3千年紀および紀元9世紀ごろの用水路も見つかっているという。これらは新世界では最古の灌漑と主張されている。その下からさらに古い用水路の痕跡も見つかっており、紀元前5千年紀にまで遡ると調査者は主張している[8]。
インド亜大陸
西欧
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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