瀬川瑛子
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瀬川 瑛子
2022年7月25日
基本情報
生誕 (1947-07-06) 1947年7月6日(76歳)
出身地 日本東京都渋谷区
学歴町田学園高等学校(現・品川エトワール女子高等学校)卒業
ジャンル演歌歌謡曲
職業演歌歌手女優
担当楽器
活動期間1967年 -
公式サイト ⇒瀬川瑛子

瀬川 瑛子(せがわ えいこ)、1947年昭和22年〉7月6日 - )は、日本演歌歌手女優。歌手・瀬川伸の次女[1]。本名:清水 瑛子[2](しみず えいこ、旧姓:瀬川)。身長168cm、血液型B型。既婚。
来歴

東京都渋谷区出身[1]。ただし父が引っ越し好きだっため物心ついた頃に世田谷区の一軒家で暮らし始め、小学生の頃に目黒区に移り、さらに中学入学する頃に品川区に転居した[1]。品川区立日野中学校(現・品川区立日野学園[1](その後転校したのか、品川区立浜川中学校卒業とされる)を経て、町田学園高等学校(現・品川エトワール女子高等学校)卒業[3]

股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博し、紅白歌合戦出場歴もある父親の瀬川伸が流行歌手に育てるべく、5歳の頃から2歳上の姉と共にレッスンを受けていた[4]

父のステージの前座を経て、1967年に「涙の影法師」でデビュー[1](当初の芸名は瀬川 映子)。

地道に活動を続け、1970年に7枚目のシングル「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットを記録[1]

その後、ご当地歌謡が続いたが、しばらく低迷。1983年船村徹の好意で、ちあきなおみ細川たかしらとの競作で「矢切の渡し」をレコーディングして30万枚を売り上げる。

1986年には夫婦の情愛を描いた「命くれない」が1987年度オリコンシングルチャート年間1位を記録し、ミリオンセールスを記録して大ヒット(累計売上は、170万枚とされる[5])。自身の代名詞的なとなる。しかし、歌詞にある「一途に添い遂げる女」とは裏腹に、私生活では結婚生活が破綻し、夫と別居状態に陥っていた。この時に「この歌を歌う資格があるのか?」などと自問自答し、「歌を歌って初めて苦しいと感じた」と述べている。

上記の通り、24歳の頃にレコード会社の社員と結婚していたが、後に離婚。

1999年、51歳の時にバックバンドを務めていた6歳年下の清水武と再婚した。
エピソード

両親と姉と弟との5人家族として育った。「娘たちにも歌手になってほしい」という父・瀬川伸の願い[注 1]により、先述の通り姉と共に自宅で父から歌のレッスンを受けた[1]。父は普段ダジャレを連発するような朗らかで面白い人だったが、歌の指導の時は人が変わった[1]。瀬川曰く「父は、後の『巨人の星』の星一徹そのまま」というスパルタ指導で、要領のいい姉はいつの間にかレッスンを辞め、以後瀬川だけが指導を受け続けた[注 2]。レッスンでは当時小学生の瀬川には、歌詞の心情を理解するのが難しい大人の女性の歌もあり、厳しい指導で泣きながら家出しようとしてバス停にいたのを見つかってグレ戻されたこともある[注 3]

その後も厳しいレッスンに何とか励み、中学生の頃はたびたび学校を早退しては、姉が出演する[注 4]渋谷のロック喫茶「プリンス」や銀座のジャズ喫茶「銀座ACB(アシベ)」に行っていた[1]。それらの店に客として来ていた歌手の北原謙二にスカウトされ、本格的に歌の世界に入った[1]

プロになって初めてのステージは、品川公会堂で行われた父のコンサートの前座だった[1]。この時、コロムビア・ローズの「どうせひろった恋だもの」を歌ったが、緊張でまともに歌えなかったという[1]。16歳の時、当時姉が出演するNHKの歌番組『若い民謡』のプロデューサーからの紹介で、クラウンレコードの人に瀬川の歌を聴いてもらえる機会を得た[1]美空ひばりの「」を歌ったデモテープを送ったところ、2年後を目標にレコードデビューする話が決まり、少し遅れたが20歳でデビューした[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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