瀬川昌治
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せがわ まさはる
瀬川 昌治
生年月日 (1925-10-26) 1925年10月26日
没年月日 (2016-06-20) 2016年6月20日(90歳没)
出生地東京市神田区神保町
死没地東京都千代田区
国籍 日本
職業映画監督脚本家演出家
ジャンル映画テレビドラマ舞台
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瀬川 昌治(せがわ まさはる、1925年10月26日 - 2016年6月20日)は、日本の映画監督脚本家、舞台演出家喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督した。
来歴・人物

1925年10月26日[1]東京市神田区神保町(現在の東京都千代田区神田神保町)の官吏の家に生まれる。学習院初等科中等科に学び、一学年上の三島由紀夫などと交流する。学習院高等科 (旧制)在学中に陸軍船舶兵として応召。終戦後、東京帝国大学(現・東京大学文学部英文科に入学するが、在学中は野球部のレギュラー外野手として活躍し、東京六大学野球リーグ戦にも出場した(東京大学野球部出身の映画監督としては、他に井坂聡秋原正俊らがいる)。

卒業後は映画プロデューサーを目指し、当時ハリウッドのプロデューサー・システムを取り入れていた新東宝の製作部に入社するが、次第に演出に興味を持つようになり、1950年には同社の助監督部に異動して、阿部豊松林宗恵中川信夫などに師事した。新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行して従来のような自由な映画作りが困難になった1957年に退社。フリーのシナリオライターを経て、1959年東映の契約助監督となる。

1960年、『ぽんこつ』で監督デビュー。アクション映画や文芸映画を手掛ける一方、榎本健一などの浅草出身コメディアンを起用して喜劇に才能を発揮する。1967年東宝松竹に対抗して東映が立ち上げた喜劇「列車シリーズ」の監督を任される。旧国鉄の協力を得て、全国各地の鉄道や観光地が登場する渥美清主演のこのシリーズは、計3本作られたが、列車シリーズを高く評価した松竹社長・城戸四郎から「松竹の正月映画で列車シリーズをやってほしい」との誘いを受けて、岡田茂東映プロデューサーから「ちょっと行ってこいよ」と言われ1968年に松竹に移籍[2]野村芳太郎監督のコント55号映画の同時上映作品として「旅行シリーズ」の一作目『喜劇・大安旅行』をフランキー堺主演で監督する。

列車シリーズの主人公が鉄道の車掌で固定されていたのに対して、旅行シリーズでは主人公は観光地の鉄道駅に勤務する駅員か駅長なども演じるようになり、作品に登場するロケ地もよりスケールアップして(『喜劇・誘惑旅行』ではフィリピン・ロケを敢行)、喜劇であると同時に観光地映画という独自のジャンルを確立する。緻密に練られた構成の妙と、伴淳三郎ミヤコ蝶々などベテラン喜劇俳優を巧みに使いこなしてヒット作を量産する瀬川の演出手法は、城戸四郎から絶大な信頼を得ることとなり、1969年の年頭挨拶において城戸は「瀬川を見習え」と全社員に訓示するというエピソードを残している。なお、松竹に移籍した背景には、東映で保留されていた先輩・三島由紀夫の小説『愛の疾走』映画化の企画を進めるという瀬川の意図があったが、旅行ものがシリーズ化されたために、『愛の疾走』の企画は立ち消えとなる。

旅行シリーズは計11本制作され、1972年の『快感旅行』で終了(のちに番外編としてテレビドラマ『喜劇団体旅行 開運祈願』がフランキー堺主演で作られている)。


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