この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "瀬島龍三"
瀬島 龍三
瀬島龍三参謀(大尉時代)
生誕1911年12月9日
日本 富山県西砺波郡松沢村
(現在の小矢部市)
死没 (2007-09-04) 2007年9月4日(95歳没)
日本 東京都調布市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1932年 - 1945年
最終階級 中佐(陸軍)
除隊後実業家
墓所築地本願寺和田堀廟所
テンプレートを表示
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年〈明治44年〉12月9日 - 2007年〈平成19年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家[1]。陸士44期次席・陸大51期首席。位階・勲等は従三位・勲一等瑞宝章。太平洋戦争のほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として務めた。最終階級は中佐。伊藤忠商事会長・相談役、亜細亜大学理事長、日本電信電話顧問等を歴任。退職後は中曽根康弘元首相の顧問など多くの職に就任し、「昭和の参謀」と呼ばれた[2]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
生涯
出典検索?: "瀬島龍三"
初期後備役歩兵少尉の三男として生まれた[3]。瀬島龍三著「幾山河」によると、1924年(大正13年)に北陸で行われた陸軍特別大演習を見たのがきっかけで、東京陸軍幼年学校を受験、合格した。
砺波中学校第16回生(現・富山県立砺波高等学校)を中退し、東京陸軍幼年学校に入校、陸軍士官学校予科を経て、1932年(昭和7年)に陸軍士官学校本科第44期を2番/315名[4](同期トップは騎兵科原四郎)で卒業して恩賜の銀時計を拝受した[5]。同年10月に陸軍歩兵少尉に任官、富山歩兵第35連隊第1大隊第1中隊附となる。(聯隊長徳野外次郎歩兵大佐・16期、大隊長花谷正歩兵少佐・26期、中隊長新開長太郎歩兵大尉・30期)
1938年(昭和13年)12月8日に陸軍大学校第51期を1番/51名で卒業し[6]、恩賜の軍刀を拝受[7]。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。その後、1939年(昭和14年)1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となった。同年11月には参謀本部幕僚附(作戦課)に補され、間もなく参謀に昇格して開戦前は対ソ作戦を担当。翌1940年(昭和15年)には関東軍特種演習(関特演)の作戦立案にあたった。 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦。開戦を意味する暗号「ヒノデハヤマガタ」は、瀬島参謀が考案したものである。開戦後は南東太平洋方面における作戦を担当、1945年(昭和20年)7月に関東軍参謀に転じるまで同職にあって、前線に出される多くの作戦命令を起案した[8]。 ほとんどの期間を参謀本部部員(作戦課)として陸軍の中枢にいた瀬島は、舅・松尾伝蔵の義兄であり戦争の早期終結のために動いていた岡田啓介(元首相、海軍大将)と連絡を保った(「岡田啓介#終戦工作」を参照)。1944年(昭和19年)12月から翌年2月まで、「瀬越良三」の変名を用いて、外交伝書使としてモスクワへ出張した[8]。 1945年(昭和20年)1月15日に島村矩康(36期、大佐。大本営陸軍参謀兼聯合艦隊参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀であった[9])が戦死すると[9]、その後任に瀬島が選ばれ[10]、同年2月に連合艦隊参謀を兼務した[8]。
太平洋戦争時