瀬古利彦
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瀬古 利彦

選手情報
フルネームせこ としひこ
ラテン文字Toshihiko Seko
国籍 日本
競技陸上競技
種目長距離走マラソン
生年月日 (1956-07-15) 1956年7月15日(67歳)
出身地三重県桑名市[1]
身長170cm
体重62kg
コーチ担当者中村清
自己ベスト
3000m7分54秒9 (1979年)
5000m13分24秒29 (1985年)
10000m27分42秒17 (1986年)
20000m57分48秒7 (1985年)
25000m1時間13分55秒8 (1981年)
30000m1時間29分18秒8 (1981年)
マラソン2時間8分27秒 (1986年)
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瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年昭和31年〉7月15日 - )は三重県桑名市出身の元陸上競技マラソン選手、陸上競技指導者。1970年代後半から1980年代にかけて宗茂宗猛兄弟、伊藤国光中山竹通新宅雅也らとともに日本長距離界をリードした。

現役引退後はヱスビー食品スポーツ推進局局長を経て、2013年4月よりDeNAランニングクラブ総監督を務め、2019年6月より同エグゼクティブアドバイザー。

2016年11月より、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(理事兼任)に就任している[2]
経歴
陸上競技との出会い

中学時代は野球部で投手をしていた。チームは県大会に出場するも早々に敗退するようなレベルだったが[3]、東海地区の野球の強豪校からの誘いもあったことなどもあり[4]、高校球児として甲子園を目指すつもりでいた。野球に関心を持ったきっかけは漫画『巨人の星』への憧れであったという[5]

ところが、1年生時に校内の5キロ走大会で優勝したことから、陸上部より懇願されて大会に出るようになる[6]。市の陸上大会の2000mで優勝、続く県大会でも当時の三重県記録で優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり[7]、陸上競技の強豪校・四日市工業高校への入学を決意する。入学直後から中距離走で頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mに出場し、3位に入賞[8]。高校2年生時には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝。千葉国体1500m、5000mで優勝。3年生時には福岡インターハイにて800m・1500m・5000mの中長距離三冠に挑戦したが、5000mで中村孝生前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年生時同様に2冠に終わる。しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた[9]茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。

全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した(ただし、この年の第1区では誘導員のミスでスタート後のトラック周回が1周少ない9.6kmとなり、記録は「参考記録」扱いとなった)[6]。正式な区間記録をねらった3年生時は、途中で腹痛に見舞われて後退し、2年連続の区間賞獲得もならなかった[10]

大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で、(瀬古の父は中央大学へ頭を下げ)早稲田大学の一般入試(運動部員に対する特別優遇の推薦入試等は当時無かった)を受験した。しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。
ロサンゼルスオリンピックまで

1976年入学当初、浪人中の不摂生もあって約8kg増量していた[11]早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。以後、恩師中村と二人三脚で鍛錬の日々を過ごすことになる。箱根駅伝では1年次から4年連続で「花の2区」を走り、3、4年次で区間新を記録した。

1年生の1977年2月、京都マラソン(旧)で初マラソン。10位となり新人賞を受賞[12]。2年生となった同年12月の福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目される。3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす(日本人としての優勝も1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶり)。1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(英語版)(アメリカ合衆国)に次いで2位となる。この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。

オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。

1981年2月の青梅マラソンに参加。仮想ボストンとしてオープン参加。モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブール(オランダ)に圧勝。このとき記録した1時間29分32秒は、2019年にチェボティビン・エゼキエル(ケニア)に破られるまで、38年間大会記録であった。3月22日にはニュージーランドクライストチャーチでの記録会で、1レースで25000m(1時間13分55秒8)と30000m(1時間29分18秒8)の世界記録を同時に樹立した。この両記録は2011年にモーゼス・モソップに破られる[13][14]まで、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認するトラック種目として日本人が唯一保持する世界記録だった。その直後、4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾る。この時の優勝記録2時間9分26秒は前年のビル・ロジャースの優勝記録を1秒上回る大会新記録であった。しかし、このあとトラック欧州遠征中に脚を故障、1年以上にわたってマラソンのレースから遠ざかることになる。この間、トレーニングと治療の両立という厳しい選択の中で中村と瀬古は様々な対応を試行し、最終的には鍼灸師による定期的な療養により克服した。中村はこの故障を「神様の与えてくれた試練」と表現した。

大学から社会人にかけての独身時代は、中村の自宅に隣接するアパートに下宿していた。その当時の生活管理は厳しく、用便の際に息抜きに漫画雑誌でも読もうかと思ったところ、中村が便所のドアを開け「瀬古、ウンチの具合はどうだ」と尋ねられたこともあったという[15]

早稲田大学時代より、東京青山明治神宮外苑ランニングコース(全長1.3kmの楕円形周回路)で、中村の指導下で瀬古が練習を行っており、のちに「瀬古ロード[16]」とも呼ばれるようになった。


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