瀧安治
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瀧 安治基本情報
国籍
日本
出身地静岡県静岡市
生年月日1941年2月11日
没年月日 (2003-11-19) 2003年11月19日(62歳没)
身長
体重174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1964年
初出場1964年3月20日
最終出場1973年10月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


静岡県立静岡商業高等学校

関東学院大学

三菱重工川崎

読売ジャイアンツ (1964 - 1973)

コーチ歴


読売ジャイアンツ (1974 - 1977, 1989)

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瀧 安治(たき やすはる、1941年2月11日 - 2003年11月19日)は、静岡県静岡市出身のプロ野球選手内野手)・コーチ解説者評論家

実兄に阪神捕手であった瀧英男がいる。
来歴・人物

静岡市立東中学卒業。兄と同じ静岡商に入学するが、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は関東学院大学に進学し、横浜五大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験、首位打者2回[1]

大学卒業後は三菱重工川崎を経て、1964年読売ジャイアンツへ入団。同年は開幕から7番・二塁手として先発出場し、シーズン前半は遊撃手も兼ねて重用される。同年は23試合に先発を果たすが、打撃面で伸びず後半は失速した。その後は内野のスーパーサブとして活躍し、意外性のある打撃とガッツあふれるプレーでV9に貢献。主に土井正三黒江透修の控えとして活躍するが、1965年5月11日広島戦(兼六園)では瀧が放った打球が安仁屋宗八投手の膝を直撃し、跳ね返った打球を捕手・久保祥次が捕球したため瀧に捕直(キャッチャーライナー)が記録された。これは2021年現在も唯一の記録[2]である。一方では、カウントが悪くなると相手投手のリズムを崩すのを狙って審判にボール交換を要求したり、内角球のデッドボールを狙おうとしてユニフォームの下に帽子を隠して腹を膨らませるなどトリッキーなプレーをしていたことで「いじわるじいちゃん」とも言われていたことがあった[3]。なお、当人は実年齢より老けて見えたという風貌もあって「じいちゃん」または「おじいさん」とも呼ばれていたが、「モンジー」というあだ名もあった。このあだ名を付けたのは巨人の先輩の長嶋茂雄で、長嶋曰く「モダンなじいちゃんだから、分かりやすく言って『モンジー』」とのことである[4]1970年には開幕直後から二塁手、遊撃手として起用され、53試合に先発出場。シーズン後半は出番が減るものの打率.217、4本塁打を記録。同年のロッテとの日本シリーズでも遊撃手、代打として2試合に出場しているが、1971年から上田武司ユーティリティプレイヤーとして台頭して出場機会が減り、1973年限りで現役を引退。

引退後は巨人の二軍守備コーチ(1974年)→二軍守備・走塁コーチ(1975年 - 1977年)として若手の育成に力を注ぎ[5]、退団後は評論家やライターに転身。文藝春秋Sports Graphic Number』レギュラー執筆者として活躍し、巨人の選手としての経験を活かし様々な裏話などを披露。一流の作家やライターに伍して端正な文章を書き、金田正一白仁天バッキーなど一級品の評伝を送り出した[6]。評論活動の傍ら、1988年からは企業と日本プロ野球選手会の協力を得て、ガン撲滅のための「べべサンタクロースチャリティゴルフ」を始めた[7] [5]。末期ガンの患者のために、原辰徳中畑清の協力でホスピスを見舞って勇気づけたこともあった[5]

藤田元司監督が復帰した1989年、瀧も一軍内野守備コーチとして巨人に復帰。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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