瀧井 孝作
1955年
ペンネーム瀧井 折柴(たきい せっさい)
誕生1894年4月4日
岐阜県高山市
死没1984年11月21日
東京都八王子市
墓地大雄寺(岐阜県高山市)
職業小説家、俳人、編集者
活動期間1909年 - 1984年
ジャンル小説、俳句、評論、随筆
代表作『無限抱擁』(1925年)
『結婚まで』(1927年)
『松島秋色』(1952年)
『野趣』(1969年)
『俳人仲間』(1973年)
主な受賞歴読売文学賞(1961年)
読売文学賞(1969年)
日本文学大賞(1974年)
デビュー作『息』(1913年)
子供小町谷新子(長女)
小町谷照彦(新子の夫)
影響を受けたもの
河東碧梧桐、芥川龍之介、志賀直哉、武者小路実篤
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
瀧井 孝作(たきい こうさく、1894年(明治27年)4月4日 - 1984年(昭和59年)11月21日)は、日本の小説家・俳人・編集者。日本芸術院会員。文化功労者。俳号は折柴。
初め俳句を河東碧梧桐に師事し、新傾向俳句運動に携わったが、作家に転じ、私小説・リアリズム小説を執筆。小説を芥川龍之介、志賀直哉に兄事した。特に恋愛小説の傑作と称された『無限抱擁
』で知られる。岐阜県大野郡高山町馬場通(現在の高山市大門町)に、新三郎 - ゆきの次男として生まれた。新三郎は名人と言われる指物師であった。
1900年(明治33年)6歳、高山尋常小学校へ入学。1906年、母ゆき没。町の魚問屋に丁稚奉公し、1908年、店の隣りの青年に俳句を教わった。1909年、全国俳句行脚で来た河東碧梧桐に認められ、句誌への投稿を始めた。号は『折柴』(読みは初めは『おりしば』であったが、碧梧桐の勧めで『せっさい』と読ませるよう改めた)。1913年には最初の小説『息』を投稿し、荻原井泉水にも認められた。
1914年(大正3年)20歳、東京市神田区(現在の千代田区内)の特許事務所へ転じ、碧梧桐、中塚一碧楼、大須賀乙字らと句作し、小説『夜の鳥』を新聞連載した。1915年碧梧桐が創めた句誌『海紅』の編集を手伝う。1917年から碧梧桐・中村不折らの六朝書道研究誌『竜眠』の編集に当たり、この書道と、碧梧桐の影響下に鑑賞した能を文学の糧とした。1919年時事新報の文芸部記者として芥川龍之介を知った。吉原にいたことのある榎本りんと結婚した。翌年「改造」の文芸欄担当記者として志賀直哉を知り、「暗夜行路」を改造に貰った。
1921年(大正10年)27歳、勤めをやめ、のちに『無限抱擁』にまとまる小説の雑誌掲載を始めた。翌1922年、そのヒロインのりんが亡くなった。志賀直哉に誘われ、志賀の住む我孫子へ移った。家族のように扱われ、毎日の夕食に招かれるほどであった。
1923年(大正12年)29歳、志賀の引っ越しを追って、京都へ移った。志賀夫妻の媒酌により、篠崎リンと志賀邸で、挙式結婚した。リンは志賀の我孫子時代に産婆として出入りし、京都では志賀夫人の看護婦兼家政婦として、志賀邸に住み込んでいた。翌年長女を得た。芥川の弟子と目され、小島政二郎・佐佐木茂索・南部修太郎とともに「龍門の四天王」と呼ばれたこともある。
1925年(大正14年)31歳、志賀を追って、奈良へ移った。京都、奈良では、寺社・博物館・古式の年中行事などから、古典文学を学んだ。1927年、芥川の葬儀に上京した。『無限抱擁』を出版した。