濃姫
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この項目では、人物について説明しています。イチゴの品種については「濃姫 (イチゴ)」をご覧ください。

のうひめ / のひめ[注釈 1]
濃姫
濃姫之像(清洲城模擬天守横)
生誕帰蝶?
天文4年(1535年[1]
美濃国稲葉山城
死没諸説あり
その後に関する諸説を参照
墓地濃姫遺髪塚?
国籍日本
別名於濃、帰蝶、胡蝶、鷺山殿
[一説に]安土殿
配偶者[一説に]土岐頼純[注釈 2]織田信長
子供なし[異説あり][注釈 4]生存説も参照
斎藤道三小見の方
親戚兄弟:
義龍龍重喜平次利堯利治
姉妹:
[説1]女(斎藤利三正室)、女(姉小路頼綱正室)、女(稲葉貞通正室)
[説2]女(金森長近室)、女(休庵室)[注釈 5]
その他:
明智光安(伯父)、明智光秀(従兄弟[注釈 6]
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濃姫(のうひめ / のひめ[注釈 1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。通説では、美濃戦国大名である斎藤道三(長井秀龍)の娘[注釈 7]で、政略結婚で尾張の戦国大名の織田信長に嫁ぎ[注釈 8]、信長の正室になったとされる[注釈 9]が、後述するように名前や呼称は確かではない。ここでは便宜上、濃姫として記述する。
呼び名と人物比定

信長公記』には、平手政秀の働きで政略結婚が成立して、美濃の道三の娘が尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男(信長)に嫁いだと書かれている[8]が、その名前は書かれておらず、濃姫という名前も登場しない[注釈 8]

広く知られた『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫(のひめ)として登場していることから、この名が有名になった[5][6]が、これは濃州つまり美濃国の高貴な女、美濃からきた姫、美濃姫を省略して濃姫と呼んだ、と考えるのが正しく、本名ではない[9]

名前に言及している書籍はわずかであるが、江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では帰蝶/歸蝶(きちょう)であったとされ、同じく『武功夜話』では胡蝶(こちょう)であったとされる[10]。帰蝶は胡蝶の誤読であるという説もある[注釈 10]

同じく『美濃国諸旧記』で、天文17年(1548年)に秀龍(道三)が稲葉山城斎藤義龍に譲って出家して、(再び)道三と号して鷺山城に退き、翌年にこの城から古渡城[注釈 11]の信長のもとに嫁いだために、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたと書かれているが[1]、これは当時の習慣に則したもので筋が通る。

信長の妻の称としては、お濃の方(おのうのかた)[注釈 12]とも呼ばれるが、『絵本太閤記』等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは、鷺山殿の称の方が由来は明確である。『美濃国諸旧記』では上総介信長の北の方(正室)となったとの記述もあるので[7]、それに基づくと鷺山殿が信長の正室であったと考えることができる。

また後述するが、安土殿と呼ばれていた人物が濃姫と同一人物であるという最近の説もある。総見院於鍋の方の隣に葬られた養華院が、信長の妻の1人として葬られていることは確かであるが[12]、それを濃姫であると断定するまでにはまだ検討の余地がある[2]
生涯

濃姫は、斎藤道三の娘で、母は正室の小見の方[1][9]。『美濃国諸旧記』では、小見の方は、東美濃随一の名家であったという明智氏の出身であり、濃姫は正室唯一の子であったとされる[13]。『系図纂要』や『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば、小見の方は明智光継の娘、光綱の妹とされるので、明智光秀[注釈 13]の叔母にあたることになり、濃姫と光秀は従兄妹の関係にあったはずだが、光秀の出自自体に不明な点が多く、諸説があって正確な続柄はよく分からない[注釈 6]

生年を記した書物は『美濃国諸旧記』しかなく、濃姫は天文4年(1535年)の生まれだとされる[1][9]。道三が42歳の年である[9]

通説によれば、天文10年(1541年)頃に斎藤道三は守護土岐頼芸を放逐し、その連枝を殺害して美濃国主となったが、依然として土岐氏に従う家臣も多く、守護家を慕う古い秩序を断ち切れないでいた。そこで、頼芸より下賜された側室深芳野の子である長男・義龍を頼芸の落胤であると称して美濃守護に据えた[16]

しかし天文13年(1544年)8月、斎藤氏の台頭を嫌う隣国尾張織田信秀は”退治”と称して土岐頼芸を援助して兵5千を派遣し、越前国朝倉孝景の加勢を受けた頼芸の甥・土岐頼純(政頼)が兵7千と共に南と西より攻め入った。斎藤勢はまず南方の織田勢(織田寛近)と交戦したが、過半が討ち取られ、稲葉山城下を焼かれた。同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸を北方城に入れ、頼純を川手城へ入れると約束した[17]

天文15年(1546年)、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある[2]。この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護土岐頼純の正室となったことになる。

信秀との約束は一旦保留となったが、織田・朝倉の方でも道三を討伐しようという考えを捨てておらず、天文16年(1547年)8月[注釈 14]、土岐頼芸と頼純に大桑城に拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促した。道三はこれを知って驚き、織田・朝倉勢が押し寄せる前に大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、頼芸は命からがら朝倉氏の越前国一乗谷に落ち延びた[19]。9月3日、信秀は再び美濃に侵攻して稲葉山城下を焼いたが、22日の夕暮れに退却しようとしている所を斎藤勢に奇襲され、敗北を喫した[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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