澤田隆治
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さわだ たかはる
澤田 隆治
生誕
1933年3月18日
日本大阪府吹田市
死没 (2021-05-16) 2021年5月16日(88歳没)
日本東京都
国籍 日本
職業テレビプロデューサー
活動期間1955年 - 2021年
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澤田 隆治(さわだ たかはる、1933年昭和8年〉3月18日 - 2021年令和3年〉5月16日)は、日本テレビプロデューサーテレビディレクターラジオプロデューサーテレビランド代表取締役社長。

東阪企画創立者で元代表取締役会長。その他にも日本映像事業協会会長、大阪放送芸術学院校長、全日本テレビ番組製作社連盟顧問、笑いと健康学会会長等を務める。

弟は放送作家尾上たかし

“さわだ りゅうじ”の読み方をされることもある。
来歴・人物

大阪府吹田市出身。大阪商船に勤めた父の転勤で2歳から京城で育ち、終戦で父の故郷・富山県高岡市に引き揚げ、さみしい心を癒やしたのが喜劇映画だった。これを原点に明るい笑いとハッピーエンドにこだわり、様々な公演やイベントの企画制作に当たった。旧制 富山県立高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)1年に編入、中学3年から旧制兵庫県立尼崎中学校(現・兵庫県立尼崎高等学校)へ編入。市立尼崎高等学校から神戸大学文学部日本史学科に進学。高尾一彦門下[1]で、卒論テーマは「淡路における請山制山林経営」[2]1955年(昭和30年)に大学を卒業後、朝日放送(ABC)に入社。
朝日放送在職時代

同期は「必殺シリーズ」を生んだ山内久司高校野球中継などの実況で有名なアナウンサーの植草貞夫らがいる。朝日放送は当時 ラジオ単営局だったため、ラジオ番組の演芸プロデューサーとして『東西寄席風景』『漫才教室』『浪曲歌合戦』『上方寄席囃子』などのラジオ番組を主に担当する。上司の松本昇三の下で現在も続く落語会『上方落語をきく会』を企画した。

1958年(昭和33年)、朝日放送と新日本放送(後のMBSメディアホールディングス毎日放送))の合弁だった大阪テレビ放送(OTV)の合弁解消が決まり、吸収合併されることになったOTVへ出向。OTVでの初演出は『パッチリ天国』、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(KRT)へネットしたダイマル・ラケット、森光子 主演の『びっくり捕物帳』のコメディ番組でディレクターを担当。合併して、朝日放送大阪テレビを経て「ABCテレビ」に変わった後も『スチャラカ社員』『てなもんや三度笠』『ごろんぼ波止場』『新婚さんいらっしゃい!』などの公開コメディ・バラエティ番組を次々とヒットさせる。香川登志緒脚本、藤田まこと主演で澤田が演出した『てなもんや三度笠』は最高視聴率64.8%を獲得する「お化け番組」となり、社会現象となった。『てなもんや - 』の映画シリーズ 全5作と『スチャラカ社員』の映画版は香川が原作、澤田は共同脚本に名を連ねた。

草創期のテレビ制作者の中では最も早くから視聴率第一主義を取った一人で、一瞬のギャグのリハーサルに30分?1時間掛かることが珍しくなく、厳しい演出で知られ、タレントたちからは「魔王」と恐れられていたという[3]

昭和40年代に入ってから、香川は「もう、これ以上 書けまへん」と匙を投げて、『スチャラカ』を降板。1967年(昭和42年)4月、番組は終了。二人の対立は『てなもんや』に飛び火して、こちらも1968年(昭和43年)4月改編で終了した。『てなもんや』終了後の後番組『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』『スコッチョ大旅行』は主演の藤田と脚本の香川は続投したが澤田は関わらず、いずれも短命に終わった。

『てなもんや三度笠』終了後、バラエティ番組の制作と平行する形で、澤田はテレビドラマの制作に乗り出す。1968年、高田浩吉主演の『伝七捕物帳』を、1969年本郷功次郎主演の『天保つむじ風』をそれぞれ手掛け、後の『裸の大将放浪記』シリーズに繋がる礎となった。

ABC、MBSKTVYTV松竹芸能の共同出資で、1970年(昭和45年)に設立された制作会社「ビデオワーク」へ出向。澤田は松竹の正司敏江・玲児を見い出して、帯番組『敏江・玲児だ、みんな集まれ!』。週末の『あきれた学園』『ミニミニ社員』と週7日、2人のレギュラーを配置するという勝負に出た。どつき漫才の敏江・玲児は全国区の人気者になった。『ミニミニ - 』は4ヶ月で打ち切りとなり、1971年(昭和46年)、『新婚さん-』の立ち上げに弟の尾上とともに関わるが、実際のプロデュースは後輩の三上泰生が務めるという冷遇を受けた。

澤田はスタート直後にビデオワークから報道局ラジオ報道部へ異動となり、バラエティ番組の制作からは一旦離れた。
東阪企画社長として

1974年(昭和49年)、日本テレビの制作局次長だった井原高忠の薦めで上京。朝日放送が大阪東通と話し合って出資した東阪企画を設立。ABCは澤田に東阪企画を通じて、他のキー局や在京の制作会社各社と交流を強化する役割を期待して、異例の兼職を認めた。

その後は関西で培ったお笑いの知識や人脈を生かして『花王名人劇場』(関西テレビフジテレビ系)の演出・プロデュースを担当するなど、得意とする演芸番組で実績を作り、演芸分野以外では『ズームイン!!朝!』(日本テレビ)など数多くの番組を手掛ける。最盛期は月80本以上のレギュラー番組を制作、放送した。同社は63歳となった1996年(平成8年)まで在籍した。詳細は「東阪企画#情報・バラエティ部門」を参照

社会現象になった1980年代初頭の漫才ブームは『花王名人劇場』における澤田の果たした役割が大きいとされ、この番組で放送した横山やすし・西川きよしB&B星セント・ルイス出演の「激突!漫才新幹線」がヒット。現在では『THE MANZAI』の横澤彪と並ぶ「漫才ブームの仕掛け人」の評価が確立している。詳細は「漫才ブーム#概要」および「日本お笑い史#MANZAIブーム(お笑い第二世代)」を参照

その一方で、上方を中心とする大衆演芸の後継者育成に力を入れて、花王名人劇場の年末特別企画で演芸賞『花王名人大賞』を創設。番組では9回に渡って放送した。漫才ブームからお笑い第三世代の担い手たちは花王名人大賞の新人賞を受けた者が多く、香川がいち早くその実力を認めたダウンタウンもその一組である。詳細は「花王名人大賞スペシャル#新人賞」および「日本お笑い史#お笑い第三世代」を参照「香川登志緒#ダウンタウン」も参照


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