澤地久枝
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澤地 久枝
Hisae Sawachi
誕生 (1930-09-03)
1930年9月3日(93歳)
東京都港区青山
職業ノンフィクション作家
言語日本語
最終学歴早稲田大学第二文学部
ジャンルノンフィクション
主な受賞歴第5回日本ノンフィクション賞
『火はわが胸中にあり』
第41回文藝春秋読者賞
『昭和史のおんな』
1984年度日本女性放送者懇談会賞
第34回菊池寛賞
『滄海よ眠れ』・『記録 ミッドウェー海戦』
2008年朝日賞受賞
デビュー作『妻たちの二・二六事件』
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澤地 久枝(さわち ひさえ、1930年9月3日[1] - )は、日本ノンフィクション作家社会運動家東京都港区青山出身。

編集者を経て『妻たちの二・二六事件』(1972年)で作家に。綿密な取材で、真実に迫る作品を執筆。作品に『火はわが胸中にあり』(1978年)、『もうひとつの満州』(1982年)、『滄海よ眠れ』(1985?86年)など。
来歴

大工の長女として生まれる(下に妹と弟)[2]。父親は小学校卒業後伊豆での見習修業を経て大工となり、久枝が4歳の時、家族で満洲へ移住し、吉林市満鉄社宅で暮らした[3][4][1][5]1945年吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げ山口県立防府高等学校に編入した[4]1947年夏に東京に移り焼野原の原宿に建てた6畳のバラックで育つ[6][2]

1949年中央公論社に入社し同社経理部で働きながら旧制都立向丘高等女学校(現・東京都立向丘高等学校)の定時制に一年通い、早稲田大学第二文学部に学ぶ[2]。「万葉集第十四巻東歌研究」を卒論として早大二文を卒業[2]。卒業式には、小学校しか出てないことをコンプレックスにしていた母親を一緒に出席させた[2]。卒業後、優れた能力を買われて『婦人公論』編集部へ移った。将来の編集長と目されていたが、既婚の身でありながら有馬頼義との恋愛事件を起こし、1963年に編集次長を最後に退社。このとき夫と離婚し、退職金をはたいて老母のためにアパートを建て、身一つで有馬と再婚するつもりだったが、この段階で有馬との仲が破綻していた[7]

その後、五味川純平の資料助手として『戦争と人間』の脚注を担当。1972年の『妻たちの二・二六事件』以後、本格的に執筆を開始し、『密約』(原案は西山事件)、『烙印の女たち』、『あなたに似たひと』、『昭和・遠い日近いひと』、『わが人生の案内人』、『道づれは好奇心』などを執筆した。

『火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱・竹橋事件』で第5回(1978年度)日本ノンフィクション賞、『昭和史のおんな』で第41回(1979年文藝春秋読者賞受賞。

1985年には日本女性放送者懇談会賞を受賞した[8]。翌年には『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』で第34回(1986年菊池寛賞を受賞した。この2作品ではミッドウェー海戦の日米双方の全戦没者を特定するという前例のない作業に取り組み、完成させている。

『雪はよごれていた』(1988年)では二・二六事件軍法会議の裁判官であった匂坂春平の残した裁判記録をもとに、事件をめぐる陸軍内部の駆け引きを描き出している。『雪は汚れていた』においては、匂坂春平の子息である匂坂哲郎の談話をもとに「二・二六事件正式裁判記録は東京大空襲で焼失した」としたが、同書刊行後の1988年9月になって公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが判明した[9]

「戦争へと至った昭和史の実相に迫るノンフィクションを著した業績」によって、2008年朝日賞を受賞した[10][11]
人物

九条の会」の呼び掛け人の一人[12]安倍内閣に対する批判に使われたキャッチフレーズ「アベ政治を許さない」の発案者[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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