漸減邀撃作戦
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連合艦隊司令長官・末次信正(1933年)
生誕1880年6月30日
日本山口県
死没 (1944-12-29) 1944年12月29日(64歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1899年 - 1937年
最終階級 海軍大将
除隊後内閣参議
第50代内務大臣
大政翼賛会中央協力会議議長
議定官[1]
墓所多磨霊園
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末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年明治13年)6月30日[注 1] - 1944年昭和19年)12月29日)は、日本海軍軍人政治家。最終階級は海軍大将従二位勲一等第1次近衛内閣内務大臣坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。
生涯

徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種7期」を参照

1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。上官は黙殺したが、当時世界最高の海軍国であったイギリスが同様の思考で超弩級戦艦オライオン」を建造したことで、末次の見識が認められた[2][3]

1914年大正3年)に渡英。従軍武官として戦艦「アガメムノン」や巡洋戦艦「クイーン・メリー」に乗艦して第一次世界大戦の現場に臨み、ユトランド沖海戦についての報告書を作成している。

特に戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を持ち、在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している[3]
軍令部作戦課長・作戦部長

1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)となる。詳細は「ワシントン軍縮会議」を参照

1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。

12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した[注 2]。日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わって対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者[5]との評価もある。後に、軍縮条約の影響による索敵・漸減・決戦構想について根本的な疑問を示し、高木惣吉は末次の研究の深さに感銘を受けている[6]。また海軍艦艇は重武装のため友鶴事件を引き起こしているが、末次は事前にこの重武装を戒める警告を発していた[6]
潜水戦隊司令官初代艦隊用潜水艦「海大I型」

日本の潜水艦は佐久間勉の殉職などを生みながら、未だ草創期にあったが、末次は漸減戦略の要となる潜水艦の強化を図り、1923年(大正12年)には自ら第一潜水戦隊司令官となり輪型陣突破の猛訓練を実施した。

同時に潜水艦の性能向上に努め、艦隊運動に策応できる長距離航海可能かつ高速性を備えた艦隊用潜水艦が開発された[7]。演習で末次指揮下の潜水艦3隻が戦艦2隻を撃沈するなどの実績もあがり、六割海軍である日本海軍は米国艦隊との対決に成算を得ることができ[3]、末次の声価は高まった。
ロンドン海軍軍縮会議詳細は「ロンドン海軍軍縮会議」を参照

1929年(昭和4年)、軍令部次長に進んでいた末次はロンドン海軍軍縮会議を迎えることとなる。なお当時の対米作戦計画の概要は次のようになっていた[注 3]
対米作戦計画
当時わが海軍の対米作戦の要領は、開戦后速やかにガム島と比島を占領し、続いて石油その他の資源地域を確保し、一方米艦隊に対して、その渡洋来攻の途次を捕へ、主として潜水艦を使用してこれが漸減をはかり、わが近海にこれを邀へ、わが海軍力を結集して一挙に決戦を敢行してこれを撃滅するといふ方針であった。而して先ずこれが前提として、太平洋上広範囲に亘り、潜水艦及び小艦艇による索敵網を展開し、敵発見後は追尾触接を続ける必要があった。潜水艦に対する自主的要望量十万屯(ママ)としたのは、この計算から割り出したのであった。 ? 草鹿龍之介著『一海軍士官の半生記』より引用
艦隊派の理論的背景

末次らが「対英米7割論」を唱え、軍縮条約に三大原則を主張した点については理論的根拠があった。海上での戦闘行動が行われた場合、彼我の勢力比は静止状態の勢力の自乗(2乗)に正比例するというものである。

つまり、米国10対日本7の勢力比は、戦闘行動中は100対49(ほぼ2対1)となり、この比率であれば戦術的工夫で艦隊決戦の勝利を望み得る、というものである。これには7割未満の艦隊は敗北するという戦史上の裏づけもあった[9]

なお、7割論を戦史研究から導き出したのは秋山真之である[3]。この理論を基礎とした七割論は説得力があり、対米十割でも米国との戦争はできないと主張していた石橋湛山なども条件付ながら認めていた[10]

同じ理由により、もし同一条件で10隻対7隻が戦闘した場合の残存艦は7隻対0隻となる。こうした数字の現実が、末次を対米戦術に腐心させ、月月火水木金金と謳われた猛訓練を生んでいるのである。一方海軍部内には同じ理由で対米戦、まして対英米戦は不可能と考える将官たちも少なからずいた。

なお日露戦争以降、米国側でも日本を仮想敵国とした戦争計画が策定されており、同様に「日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろう」と考えている。
会議の経過詳細は「ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧」を参照

海軍は、上記の作戦計画から次の三大原則をもって臨んだ。優先事項は順位の通りである[11]。なお、ここで言う補助艦とは「主力艦(主に戦艦)」と空母を除いた艦艇である。
補助艦 対米比率7割

潜水艦 現有戦力維持(7万8千トン)

大型巡洋艦 対米比率7割

1930年(昭和5年)3月14日、米国側は対米6割前後の腹案であったが、若槻禮次郎松平恒雄らの全権団による交渉の結果、
補助艦 対米比率6割9分7厘5毛[12]

潜水艦 日米同量 (5万8千トン)

大型巡洋艦 対米比率6割


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