「漫画学」はこの項目へ転送されています。スコット・マクラウド
(英語版)作画の理論書については「マンガ学 マンガによるマンガのためのマンガ理論」をご覧ください。漫画評論(まんがひょうろん)は、漫画を対象とする評論である。他に漫画批評、漫画研究、漫画学、漫画表現論とも呼ばれる。 日本では漫画家自身が作品について言及することはあったが、漫画が流行し始めた大正時代中頃に漫画評論がなされるようになったとみられ、1920年(大正9年)に雑誌『日本一
日本
歴史
1950年代から1960年代には教育、心理、言語といった学問における雑誌で特集され[7]、それ以外では作田啓一、多田道太郎、津金澤聰廣の『マンガの主人公』(1965年、至誠堂)が社会学的な関心で今までの漫画を世間に広く知らしめたが[3]、本格的な漫画評論は少部数発行された同人誌で有志が行い、石子順造や権藤晋、梶井純らの『漫画主義』(1967年創刊)、米澤嘉博や亜庭じゅんら漫画批評集団迷宮の『漫画新批評大系』などを始めとして、坂育夫の『えすとりあ』(1981年創刊)、清水勲の『風刺画研究』(1992年創刊)などが続き、情報誌でも多くの冊子が発行され評論の底辺を広げた[7]。研究で先行した漫画史では漫画家によって論じられることが多く次に教育者や社会学者、そして心理学者や哲学者、映画評論家など既に他の分野で知られていた人物によるものが増えて規制の科学による検討例なのが漫画であり、そのため知的解釈の装いを多分に内在させがちだった[3]。漫画評論や研究は学問の外の人たちや鶴見俊輔や津金澤聰廣のような学者、菅忠道や滑川道夫ら教育者によって細々と地道に続けられた[7]。60年代に漫画の青年化によって貸本劇画からガロへの流れに焦点を当てて藤川治水、尾崎秀樹、鶴見俊輔、佐藤忠男、石子順造ら文芸、思想、映画、美術といった専門分野がある人たちが共通して白土三平ら思春期以降の読者を支持者とする若者文化と位置付ける傾向があり、漫画評論が教育的影響論から脱し、白土の存在は漫画評論の成立の大きな影響を与えた[8]。60年代以降から作品論や作品を総体として捉えた漫画家論が書かれるようになり、戦後の漫画家がよく取り上げられ一番多いのは手塚治虫だった[9]。
多数の分野の者によって評論された反動からか1980年前後には戦後の漫画に親しんできた若者世代がそれを元にして戦後のストーリー漫画の歴史などを執筆し出し、活動に熱心で研究色が強かった1人が米澤嘉博だった[3]。60年代に子供を対象としていたのが大衆文化として理想化された大衆を対象した漫画評論へと変化したが、1980年前後になると先の世代とのすれ違いでどこか自分の生きている漫画とは違う違和感から読者を主体として発言し始め、私的なエッセイの文体で語られ、コミックマーケット主宰の米澤や団塊の世代から流行の作家が輩出されたのと同じくして中島梓や編集者の亀和田武や村上知彦、漫画家の飯田耕一郎ように読者、作者が主体となり、後の漫画批評を形作った[10]。ただ語ることが好きなのではないかと疑われた大衆文化的に捉えた者たちは新世代の手法にほとんど問答無用で駆逐されたが、お互いは対立しているようで明確にはなっておらず、流行のように趨勢が決まり、社会の中で論じることから漫画を自分として内在的に語るように変化した[11]。一方でその変化の過程の不透明さが後にも説明されずつまずきになったり、旧世代の漫画評論が顧みられなくなった[12]。また、旧世代への反発は理性的ではなく父親に反発するようなコンプレックス関係から来ていたと夏目房之介が指摘している[13]。1970年代に漫画を表現レベルで解析しようとする後の「漫画表現論」が流行、映画、絵本、教育でも記号学、記号論、映画理論を使った手法がとられ同じく漫画でも模索された[2]。1990年代になるとそれが精緻さが増し、メディアに注目されたのは手塚治虫没後に漫画展が各地で開催されたり漫画家の記念館の開設といった漫画文化が見直されたことと直接関係した[2]。同年代に東京サザエさん学会の『磯野家の謎』(1992年、飛鳥新社)をきっかけに批評的な意味合いもあった謎本ブームが到来した[14]。
貸本漫画や赤本漫画は大手出版社の漫画よりも裏文化的な側面が強く、保存や再評価が進まなかったが松本零士、日高敏の『漫画歴史大博物館』(1980年、ブロンズ社)が不明な作品をビジュアルで掲載したことで大きな役割を果たし、中野書店や講談社、小学館からの復刻で多くの作品が読めるようになり、出版や社の状況についての書籍や研究報告がなされるようになった[15]。少女漫画も遅れたジャンルだが藤本由香里の『私の居場所はどこにあるの?』(1998年、学陽書房)の出版やヤマダトモコの活動があり[15]、学会誌では『リボンの騎士』などをジェンダー視点で読む事も目立つようになった[16]。
同人漫画を総合的に研究した専門書、論文は乏しく、ファンによる創作物のコンテンツが大まかにしか触れられない[17]。これは欧米でも同じくファン・フィクション作品の分析が比較的少ない[17]。合法的に翻訳出版が難しく、インターネット上にあるスキャンレーションされた作品は断片的で、日本国内での流通に基本限られ、他国に持ち出せても著作権侵害や猥褻物だとして問題になるため、他国の出身者は日本語を解さないと研究することはほぼ不可能である[17]。
1990年代後半になると学術やその周辺でも批評研究が広がり宮本大人、瓜生吉則、吉村和真など大学博士課程で漫画専門とする者たちが出現、夏目房之介や米澤の世代で職業として確立してきたが経済的に完全に自立とまではいかず夏目はエッセイなど他の分野でも執筆したり米澤はコミックマーケット世話人であり、他国からすればずっと自立性があるかもしれないがほとんどが趣味や何かの傍ら行われてきた分野で、夏目は若者に勧められるほどではないとしている[18]。 漫画評論をするにあたって作品からのコマやページの引用は本来、著作権法の範囲内で権利者に許可なく可能だが、日本の漫画業界では権利者に引用の許可を得る習慣が存在、使用料の要求や著者でなく出版社が許諾権を主張したり[19]、漫画によって潤ってきた出版社が評論の内容によっては引用させないこともあり、1995年に毎日新聞で夏目房之介はどう考えてもおかしく、漫画という商品を近視的に考え過ぎで表現としての面を考えないとよりよい市場展開も考えられないと批判[20]、2000年代に入ると夏目は業界に引用の概念が理解されたのはようやくここ数年の話で、彼はある大手出版社の依頼で日本人なら誰でも知っているある有名キャラクターが実は古代から美術史に見え隠れして現代美術にも影響を与え有名な彫刻作品のパロディを描きながら進む筋書きを考え、編集者はそのキャラの多方面展開をメインとして現代美術と関係付けたかったので喜んでいたが、権利者からの苦情で商品など当たり障りのないもの以外は全て不可となり、権利者の主観で悪い扱いを受ける可能性があるなら認められなかったとみられ、この話は流れた[21]。 編集者は抵抗するも駄目だったが、夏目は作家本人は既に故人で遺族がそういったことを言い出すとの噂は知っており、遺族が故人の評価を気にするのは分かり今までしてこなかった権利関係の業務をやるとなると分からないのは当たり前で、作家本人よりも防衛的になることは考えられるが、それによって遺族が権利契約問題を恣意的に動かすことになると指摘、また同じキャラを引用して書籍に載せると権利を持つプロダクションはより強硬に反対、著作権法の引用範囲について話してもプロダクションの担当者は恐らく条文すら理解せずに取り合ってくれなかった[22]。夏目は感情論で形態に関わらず言説を排除すると冷静な分析や評価する動きの妨げで長く見るとこういった歪みで個人の作家と作品への正当な評価を妨げ、作家の権利関係に携わる者たちの態度によって評価が不当に落ちるのは漫画好きとして悲しいと批判、また遺族と権利関係を巡って似たような話は他にもあるが一番の調整役になれる出版社の編集者に見識とやる気がある人が少ない問題点も挙げた[23]。 夏目はかつては許諾を得ていたが[14]、後に編集部の協力で許諾なしに引用扱いにしてもらったり[20]、弁護士に意見を仰ぐことや、いしかわじゅんのように著書で漫画の絵を引用するときには許諾申請ではなく漫画家に絵と使い方を示したお知らせを送っている[14]。 漫画家の山本おさむは1998年に著書で漫画に批評がほとんどなく、その理由として論ずる者や発表の場が少なくニーズもあまりないことを挙げたが、実際には批評に値する作品が少なく消耗品としてしか見られていないかもしれず、個々の作品が十把一絡げにされたり紹介や短評の形をとられ、ごく稀に作品論や作家論ついて著されて読むことはあるが、漫画家本人の考えとは違うはずだと疑問に思い、批評家は漫画の具体的な技法や創作過程を知らな過ぎると手厳しく捉えている[24]。 英語圏では1990年代からコミックス・スタディーズと呼ばれる学際的な学術分野が発展しており、2020年代には大学の課程にも取り入れられるようになっている[25]。コミックス・スタディーズは西欧の伝統的な学術観に基づくもので、日本のマンガ研究の主体が在野の収集家や評論家によって担われてきたのとは性格を異にする[26]。2009年時点で日本でも「国際」と名のつく英語の学術会議が開催されているが、発表者はアメリカの大学と縁のある者が多く、日本国内で活動する人物が報告者には含まれないこともある。ジャクリーヌ・ベルントは、そのような状況が、日本マンガ学会を中心とする日本のマンガ研究が文化横断や学術の面で未発達であるためかもしれないと述べている[26]。 国際的な観点からの漫画研究は、日本やアメリカでは他国の作品の翻訳が多くない点が壁になっている[27]。研究書や評論本が翻訳されても言葉の意味合いが国によって違うため用語的、概念的な問題と遭遇するとの指摘や、日本の漫画について日本人が書いた著作の翻訳が乏しい[27]。 フランスではバンド・デシネ(BD)が子供向けであったためまともに批評されず、1960年代までは教育者が宗教、アメリカ大衆文化や活字離れを警戒してBD雑誌を悪書扱いすることがほとんだった[28]。1970年にアントワーヌ・ルー
漫画評論における引用
受容
世界