漫才ブーム
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漫才ブーム(まんざいブーム)は、演芸界において、1980年 - 1982年のごく短い期間に漫才がさまざまなメディアを席巻し、またメディアに消費された一大ムーブメントである[1]
概要

漫才ブームに火をつけたテレビ番組としては『花王名人劇場』(関西テレビ)・『THE MANZAI』(フジテレビ)が挙げられる[2][3][4][5]。このため、両番組のプロデューサーである澤田隆治横澤彪の二人が「漫才ブームの仕掛け人」として名前が挙げられることが多い[6][7]

現在ではこの評価で定着しているが、漫才ブームが起った1980年のマスメディアは「漫才ブームの仕掛け人は、西の澤田隆治、東の中島銀兵」と呼んだ[8][9]。中島は『笑点』や『お笑いスター誕生!!』、『爆笑ヒット大進撃!!』を手がけた日本テレビのプロデューサーであるが、横澤のその後の功績が非常に大きいため、先の「仕掛け人は澤田と横澤」で定着していったものと考えられる。『THE MANZAI』自体も初回から視聴率15%超と一定の成功を収めていたが、爆発的な視聴率を獲ったのは、1980年7月1日放送の第3回(27.0%、関東地区、ビデオリサーチ調べ)からであるため、同年4月から放送が始まっていた『お笑いスター誕生!!』で、ブームの火はすでについていたという見方もある[10]。1989年にフジサンケイグループが刊行した『鹿内春雄記念アルバム』には「1980年10月スタートの『笑ってる場合ですよ!』で賑やかな漫才ブームが巻き起こった。80年代奇跡のフジテレビ躍進劇は、こうして幕を開ける」との記述がある[11]。澤田に関しては、よく知られているように「1980年1月20日に放送した『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』で高視聴率を奪って一気に漫才をブームに乗せた」[8]、「漫才ブームを呼んだ男」[12]など、当時の記事の中に既に書かれている。『漫才新幹線』は、関西で視聴率27.2%を獲得し[1]、同時間帯先発各局にとって波紋を呼んだといわれる[1][1][13][14][15]

吉本興業の制作部東京セクションのチーフだった木村政雄は「このブームは大阪で生産し、東京でブームにしてもらい、大阪に逆輸入した」と話した[8]。東京でブームにしたというのは、テレビのキー局であるフジテレビ、日本テレビが常設番組で火をつけたことを意味する[8][16]フジサンケイグループ議長から1980年6月にフジテレビ代表取締役副社長に抜擢された鹿内春雄が同局のお笑い番組改革を推し進めたことが大きかった[7][17][18]

吉本興業が当時撤退していた東京事務所を再開設したのは1980年10月のこと(東京吉本#吉本興業東京本社(1980年 - )[17][19]ワンルームマンションの一室に[20]、社員は木村と当時入社3年目若手社員・大ア洋の二人であった[17][19][21][22]。当時の吉本の考え方は「劇場にお客さんを集めるためにテレビやラジオで顔を売る」という「劇場主義」であったため、仕事があれば東京にも行くが、あくまで本筋は大阪の劇場であった[20]。このため東京事務所はあくまで連絡の窓口で、正式名称は「吉本興業制作部東京連絡所」といった[17][20][23]やす・きよマネージャーを8年半つとめ、東京のテレビ局にも顔が広い木村政雄は、本社の「劇場主義」を無視して仕事を入れまくり、芸能界の最大のタブーの一つであるダブルブッキングどころか、トリプルブッキング、フォースブッキングも当たり前のように組み、若手漫才師を売りまくった[20]

それまでも個々に漫才コンビが売れることはあったが、漫才界全体にブームが巻き起こったのはこの時が初めてで、漫才は日本国中を巻き込み、カルチャーの最先端になった[16][24][25]。漫才が全国共通の話題として上がる希有なブームでもあった[26][27]。1980年12月30日『THE MANZAI』第5回生放送の視聴率は、関東で32.6%、関西で45.6%を記録した[4]。木村政雄は「漫才ブームは凄まじいものでした。たった2年間で鎮静化に向かったとはいえ、それ以前とそれ以降では、すっかりと景色を変えてしまうほどのインパクトがあったように思います」と述べている[24][28]。このブームをきっかけに、後に『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』などのバラエティ番組で活躍する芸人たちが台頭する[16]。1970年代は「歌手」こそがテレビの中心で、コント55号ザ・ドリフターズ以外、「お笑い」はテレビ界の中で、添え物、脇役に過ぎなかった[29][30][31]。しかし1980年に突如興った「漫才ブーム」の芸人たちが「笑い」をテレビ界の主役に押し上げた[1][29]。ブームはすぐに収束したが、それを引き継いだ『オレたちひょうきん族』を中心とするお笑い番組とその出演者たち芸人が時代を変えた[29]

また漫才ブームの時期には、多くの漫才師がレコードを出した。1981年にはザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」が1か月で50万枚を突破し、B&Bの「恋のTake 3」も10万枚を超えるヒットとなった[32]
考察と影響

先の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームのそれを「お笑い第二世代」と呼ぶこともある(これは「お笑い第三世代」なる用語がまずありきの便宜上の呼称(レトロニム)であり、当時はこのように呼ばれることは無かった)。

この漫才ブームの中心的存在だったB&Bツービート紳助・竜介の三組に共通する、掛け合いを無視してボケが一方的に喋りまくるという漫才のスタイルを生み出したのは、紳助の解説によれば、松竹芸能浮世亭ケンケン・てるてるだという[33]。その漫才を見た、B&Bの島田洋七がこの漫才のスタイルを模倣。大須演芸場でB&Bと共演したビートたけしも、B&Bの影響を受け、ツービートはたけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した[33][34][35]。またその頃、学生だった島田紳助もB&Bの漫才を見て「今からの漫才はこれだ!」と漫才師になったという[33]。そしてツービートと紳助・竜介が最初に出会い、同じ舞台の立ったのは、1978年日本放送協会が主催する東西の若手漫才師の賞「NHK漫才コンクール」及び「NHK上方漫才コンテスト」(NHK大阪放送局主催)の優秀成績者が集まり、東京上野本牧亭で公開収録で放送された「東西若手漫才競演」(NHK総合、1978年3月21日放送)に、無名時代のツービートと紳助・竜介の初めての出会いでもあった[36]

漫才ブームが爆発した1980年8月、「週刊朝日」は“MANZAIはどこから来たか“という当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。

横山やすし・西川きよしが登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。毎日放送の浜本忠義(「ヤングおー!おー!」プロデューサー)は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビの有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す[37]

放送評論家・松尾羊一は、1980年11月号の「放送批評」(放送批評懇談会編)に於いて、彼ら新しい世代の漫才について「芸能界の話題、ゴシップ、中傷なんでもござれであり、卑猥なギャグは大いに活用し、相手の頭を叩く、あるいはどつくどころが相手の毒舌に耐えられずボケが勝手に倒れるという風にマンザイは変わってきている」と論じている。「またスピードが非常に早く、そのスリリングな会話と彼ら以前のそれとでは、地面の野球と人工芝の野球の違いがある。ボケとツッコミの会話の完結性の果ての笑い、それがかつての漫才だった。あるギャグでドッとうける。その笑いの波がひくまでの間をおいてから次の話題に入ったものだった。しかし彼らは『ドッと』という笑いをもたない。いやそういう共鳴の笑いを拒否するところがある。高感度のマイクの発達もあろう。捨てぜりふ的なことばも明瞭にひろってくれるマイクの存在も大きい」「彼らを支える大半は若者である。どこのホールでもテレビの公録スタジオでも、ファンはGS親衛隊と同じである。万才がザ・マンザイになったとき、彼らはそこにある笑いが自分たちのリテラシーの世界に属しているものだと直感的に察知する」「笑いが多層化し演じる方も多分にそれを意識しているフシがある。一般にニュー・ウェーブにこれといったストーリー展開はない。アマ的プロ乃至プロ的アマの曖昧な地点で芸界ヒエラルキーに対抗するのである」「漫才界というのは落語界よりも意外に古臭い体質を持っていた。漫才はステージの子であれば自己完結し得た芸だった。むしろ最も非テレビ的な動的な説話だった。しかし今のマンザイからテレビを除いたら殆ど成立しえまい。マンザイはテレビを獲得したときはじめてマンザイなのである。そして過度の類似番組編成によってそのテレビに扼殺されかねない存在でもある」などと論じている[38]

当時「ポンプ」の編集長だった橘川幸夫は、同書で「旧人類はお呼びでない! ニュー・ウェーブ漫才はデジタルな笑い」「それにしても最近の漫才は攻撃的。悪口罵詈雑言弱者攻撃、すごいですなあ。人々のサドマゾ感覚が拡大したのか、それとも管理されたタテマエ社会の中で、ますます『本当に言いたいこと』が言えない日常が拡大して、それの代償行為として漫才が受け容れたのか、よく分からない」などと論じている[39]

筑紫哲也は「いまの漫才には本音がある。建て前社会の鬱屈した気分を晴らしてくれる。


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