漣川郡
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京畿道 漣川郡新炭里駅
位置

各種表記
ハングル:???
漢字:漣川郡
片仮名転写:ヨンチョン=グン
ローマ字転写 (RR):Yeoncheon-gun
統計(2023年
面積:676.32 km2
総人口:41,584[1]
男子人口:21,776 人
女子人口:19,808 人
行政
国: 大韓民国
上位自治体:京畿道
下位行政区画:2邑8面
行政区域分類コード:31350
漣川郡の木:ナツメ
漣川郡の花:チョウセンレンギョウ
漣川郡の鳥:ハト
自治体公式サイト:漣川郡
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漣川郡庁

漣川郡(ヨンチョンぐん)は、大韓民国京畿道の北部にある郡である。郡の西部から北西部にかけて軍事境界線が通っている。
地理

楸哥嶺地溝帯(朝鮮語版)に位置し、郡内に臨津江が流れる。一帯に原生林が多く、川沿いに湿地も多い。川にヤガタニゴイ(英語版)、チョウセンボテ(英語版)、サメガシラ(英語版)、コウライカワムツ(英語版)、ヤガタムギツク、チョウセントゲタナゴ(英語版)などの魚類が生息し、湿地付近にはキバノロカワウソベンガルヤマネコミズグモヒシクイマガンワシイヌワシ)などの野生動物が生息している。2019年、漣川郡の郡域は臨津江流域と共にユネスコ生物圏保護区に指定された[2]
歴史

百済 - 建国初期、北部変更地域にて靺鞨との軍事的衝突が起きた。

広開土王?長寿王時代 - 高句麗領となり、この時から工木達県となった。

553年真興王14年) - 新羅に編入された。

757年南北国時代新羅景徳王16年) - 行政体制改編で功城県に改名され、鐵城郡(鉄原)の属県となった。

940年高麗太祖23年) - 州に昇格して?州に改名した。

1018年(高麗文宗23年) - 高麗の京畿近郊の3道から23郡県を編入しながら?州も開城府に編入され、京畿道に移った。

1310年(忠宣王元年)- 漣州に改名した。この時から漣川となった。

1413年朝鮮太宗13年) - 県監を設置。

1414年(朝鮮太宗14年) - 麻田県と合併されて麻漣県となったが再度分割された。

1895年旧暦5月1日(新暦6月23日) - 漢城府漣川郡に改編。[3]

1896年8月4日 - 京畿道漣川郡に改編。[4]

1906年 - 江原道鉄原郡官仁面を編入。

1914年

2月25日 - 北面を中面に改称。[5]

4月1日 - 郡面併合により、麻田郡積城郡の全域、朔寧郡の郡内面・西面・南面・東面・楊州郡嶺斤面が漣川郡に編入。漣川郡に以下の面が成立。[6](13面)

官仁面・郡内面・中面・旺澄面・嵋山面・百鶴面・郡南面・積城面・南面・北面(旧朔寧郡郡内面)・西南面(旧朔寧郡西面・南面)・東面・嶺斤面



1934年4月1日 - 東面・北面が合併して朔寧面が成立。(12面)

1938年1月1日 - 郡内面が漣川面に改称。[7](12面)

1941年 - 嶺斤面を全谷面に改称。(12面)

1945年

8月15日 - ソ連軍管理下に置かれる。ただし、南面・積城面および百鶴面・全谷面の各一部は米軍管理下に置かれる。(南4面、北10面)

11月4日 - 米軍管理下の南面・百鶴面・積城面・全谷面が坡州郡に編入。漣川郡消滅。(10面)

百鶴面・積城面・全谷面は坡州郡積城面に改編。

1946年2月5日に南面は楊州郡に移管。



1946年

9月5日 - ソ連軍管理下の京畿道を江原道に編入。

12月 - 抱川郡(永平郡)青山面・蒼水面を編入し、漣川郡は漣川面・官仁面・中面・朔寧面・西南面・旺澄面・嵋山面・百鶴面・全谷面・郡南面・青山面・蒼水面の12面で構成される。


1948年9月9日 - 朝鮮民主主義人民共和国の建国に伴い漣川郡もその管轄となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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