この項目では、中国や江戸時代の日本における教育機関について説明しています。現在の日本で個人が生徒を指導する教育施設については「学習塾」をご覧ください。
私塾(しじゅく)とは、私設の教育機関。私学の一種。中国起源の用語で、近代以前の中国・韓国・日本等の漢字・儒教文化圏において普及した。 中国では明・清代において、儒教に基づく初等教育を担う機関として広く普及したが、江戸時代の日本では主に漢学(儒学)・国学・洋学者等による中等教育以上の私設教育機関として普及した。 中国語で教育機関に近似する意味での「塾」の早期の用例は、『礼記』学記編の「古之教者,家有塾,黨有庠,術有序,國有學」とされる[1][2]。中国では漢代以降に中央・地方の官学制度が整備されたが、官学の初等教育は貴族に限られ、唐・宋代以降に一般児童の初等教育を担う「塾」が登場[3]、明・清代には、様々な形態の私塾が農村部も含め普及・拡大した。私塾では、生徒の年齢・教材・修業年限等に関する制限や統一的な規則はなく、塾師の個別指導による暗記中心の識字教育を主とし、段階的に科挙の予備教育までを担った[1]。 江戸時代における日本の私塾は一般的に、教師の私宅に設けられた教場にて学問・芸能を門弟に授ける教育施設であったが[4]、当時の「学問」とは漢学(儒学)を指し、漢学塾が隆盛を極めた[5]。幕末までには習字塾・算学塾(そろばん塾)・国学塾・洋学塾など様々なレベル・分野の私塾も普及したが、特に幕末期は自由に開設され、また、藩校や寺子屋のような身分上の差別も少なく、武士と庶民がともに学ぶ教育機関として、近代的学校(私立学校)の一つの源流をなした[4]。 武家の文武奨励(武家諸法度)を背景に、江戸時代における私塾・家塾は武家の学問教育の場として発達、幕府が朱子学派・林家の家塾を昌平坂学問所として直轄教育機関としたのを模範として、江戸時代中期以降、漢学中心の私塾・家塾が藩校として拡充・整備された例も少なくない。[6] 当時の私塾とは、藩士・浪士・僧侶・神官、その他領民が任意に開設した民間の塾であり、家塾とは藩の儒臣が藩侯の命令あるいは内意を受けて、その援助の下に開設したもので、半官半民の施設であったとされる。[7] 私塾は当初、儒者が私宅で教授する漢学(儒学)の教育機関で、幕府・諸藩に公職を有する儒者が余暇に開いたもの(佐藤一斎・杉原心斎ら)と、処士(浪人儒者)が開いたもの(伊藤仁斎・中井甃庵・頼山陽・吉田松陰・広瀬淡窓ら)との2種があった。一般的な教授方法は、塾生が一室に集い、教師は上席に座して講釈し、塾生は書籍を手にして聴聞するもので、さらに輪読・会読を通して互いの解釈・意見をたたかわせた。塾生が多数の場合は、年長生が助教として年少生を教えた。[8][9] 当時の漢学では一般に、教科書として著名な経書・史書・詩文集などを使用し、儒学の教科書としては孝経、四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・春秋・礼記)等が重んぜられ、また入門書としては千字文や三字経等も使用された。朱子学派では小学や近思録も尊ばれた。[6] 通商を求める欧米諸国との外交・国防的見地から、各国語の学問の必要にせまられた江戸時代後期から幕末期にかけて、蘭学塾・洋学塾が登場した。江戸時代の洋学は、オランダ医学を中心とする蘭学に端を発し、蘭方医学の私塾が早くから設けられた(伊東玄朴の象先堂・緒方洪庵の適々斎塾・佐藤泰然の順天堂など)[10]。日本の近代教育史上、その質と量において最も影響力を有した私塾・慶應義塾もこの系譜に属する。 明治初期には東京を中心に様々な洋学塾が創設されたが、学制発布前年の明治4年6月発行『新聞雑誌』第5号掲載の「私塾一覧 日本初の教育法令である学制(1872-78年)において、私塾は計13の条文で規定され、「一般人民華士族農工商及婦女ノ学ニ就クモノハ之ヲ学区取締ニ届クヘシ若シ子弟六歳以上ニ至リテ学ニ就カシメサルモノアラハ委シク私塾家塾ニ入リ及ヒ已ムヲ得ザル事アリテ師ヲ其ノ家ニ招キ稽古セシムルモ皆就学ト云フヘシ」(12章)とあるように、「私塾」及び「家塾」も学校の一種と見なされ、「小学私塾ハ小学教科ノ免状アルモノ私宅ニ於テ教ルヲ称スヘシ」(23章)、「私宅ニアリテ中学ノ教科ヲ教ルモノ教師タルヘキ証書ヲ得ルモノハ中学私塾ト称スヘシ其免状ナキモノハ之ヲ家塾トス」(32章)として、私塾・家塾の違いは教員免状の有無に求められた。
概要
日本
江戸時代の漢学塾
蘭学塾・洋学塾の登場
学制・法令上の規定
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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