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→字音
漢字廃止論(かんじはいしろん)は、中国・日本・朝鮮・ベトナムなどの漢字文化圏において漢字を廃止し音標文字の採用を図る言語改革運動である。 実用的な側面として、漢字が活字印刷の活用、とりわけ、活版印刷で決定的な障害となっていたことが挙げられる。 1980年代以降、日本はワープロ・パソコンといった情報機器の普及によりタイプ印字がたやすくなったが、そこにいたるまでの長い活字文化で印刷技術の活用に漢字が大きな障害となっていた。印刷技術は近代文明誕生における三大発明のひとつに並べ挙げられる[1]ほど重要性を認められていたが、漢字文化圏は文字数が膨大であることから文章を活版印刷するには非常に手間がかかり、活字の保管にも大きなスペースを必要とした。 それに比べてアメリカやヨーロッパは活字印刷のさらなる技術革命として登場したタイプライターの発明によって文書の即席印刷が可能となり、ほとんどすべての書類が迅速に活字印刷され、熟練者は1分あたり100単語、日本語は約50文字、の速さで文書を作成できた。秘書に速記で口述筆記させたのち、即タイプで清書させ、その文書にサインすることで正式書類を迅速に生産することも可能で、特に組織内での指揮伝達を迅速、明確に行えた。ほとんどの指示が口頭ではなく文書で残るだけでなく、その結果報告も活字の報告書として迅速に生産されたため組織管理の透明化に役立った。 漢字は通信技術の活用と発展にも大きな妨げとなっていた。たとえば電報やテレックスの利用が挙げられる。日本語は同音異義語が多いため、簡潔な意思伝達にのみ用いられることとなった。中国語の場合には、漢字を1字につき4桁の数字にコードブックで符号化してモールス符号で送信し、受信側は逆の手順で復号する手順(電碼)を要し、電報送信は日本語以上に困難であった。 また、日本を含む漢字文化圏で謄写版印刷が多く使われたのは、漢字の存在により、全ての種類の活字を活版印刷用にそろえることが難しかったためである。日本で学校の教材として全国統一のプリントが普及したのは学校別に活字印刷するには膨大な労力と費用がかかったからという側面もある。 欧米で機械印刷が発達したのに比べ、既に木版が普及していた東アジアで機械印刷が生まれなかった主な原因として、漢字の存在が第一理由としてあげられている。特にその弊害を生産費用の面から直接的に被っていた新聞などの出版業界が漢字廃止を支持したのもこうした事情による。 しかし、1978年にかな漢字変換を実用化した東芝JW-10が登場して以降電子化が進み、21世紀初頭には漢字を出力する際の障害が減り、この方向からの漢字廃止論は下火となっている。 ナショナリズムの確立につれて、日本・朝鮮半島・ベトナムにおいては中国から輸入した文字を使うことが問題視されるようになり、自前の文字体型に置き換える漢字廃止論は全東アジアで大きな支持を受けた。 また、漢字により生じる非効率性の問題はアメリカやヨーロッパの事情を知る者には特に強く認められており、西洋文化の吸収や国語教育においても不利で、清朝のように衰亡してしまうと考えられた。印刷技術の手間も合わせて、知識、ひいては文明の伝播の弊害であるとして漢字廃止の必要性が主張されたわけである。 当の中国でも共通語が「国語」として定められ、注音符号ができ中国語の表音化が可能になった段階で、短期間ながらも漢字廃止論が魯迅や銭玄同らによって主張された。 21世紀には漢民族を主な住民としない国で漢字を使っているのは日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムではすでに漢字の使用は事実上消滅している。漢字廃止を政策として実現させた朝鮮半島とベトナムはすでに数世代以上が漢字を教わることのないまま育っている。 韓国では、漢字廃止により語音から意味を類推するのが難しくなり、世代間のコミュニケーション上の混乱や断絶の惹起、抽象度の高い思考の困難、伝統文化の消失を憂慮する論がある[2]。 日本は江戸時代中期頃から、国学者らが、漢字廃止を主張し始めた。例えば、賀茂真淵は、著書『国意考』で、漢字の文字数の多さを批判し、仮名文字の文字数の少なさを評価した。その弟子である本居宣長は、著書『玉勝間』で、漢文の不自由さを批判している。 幕末期には、前島密が、1866年(慶応2年)12月に前島来輔という名で開成所翻訳筆記方に出仕していた際に将軍の徳川慶喜に漢字御廃止之議を献じた。
背景
印刷・電信上の問題
文化上の問題
日本の状況
歴史
近世以前
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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