漢奸
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南京戦後の南京市内で撮影された『首都各界抗敵後援会』発行のポスター。タイトルは『漢奸的下場(漢奸の哀れな最後)』と冠されており、日本軍に好意を持つものは『漢奸』と呼ばれ、裏切り者として処分される。右上は群衆に殴打される姿。右下は敵の飛行機に信号を送ったものは、かえって爆死するという意味。左上は逮捕者は即銃殺されるという意味。左下は晒し首にして公衆への見せしめにしている。[1]

漢奸(かんかん、ハンジェン)とは、漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している[2][注釈 1]

日中戦争の際には漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された[3]
「漢奸」という言葉の誕生

中国において売国奴を指す言葉だが、字義通り受け止めれば、「"漢"民族を裏切った"奸"物」と言う事になる。漢奸と呼ばれる有名人には秦檜呂文煥范文虎石敬?呉三桂汪兆銘などがいるが、中国の歴史の中で「漢奸」という言葉が生れ、現在の意味となったのはの時代においてであり[4]、対立していた南方の部族と通じる漢人に対して使用された。この時、支配の中心にいた満州族とは区別されていた漢の中の存在であり、今日の意味とは異なっていた[5]

「漢奸」という言葉が登場する最も古い記録は1621年から1629年に現在の四川、貴州、雲南、広西チワン族自治区で発生したイ族の「奢安之乱」において、明の兵部尚書である楊嗣昌と朱燮元が上奏文の中で「外国人と手を結んで反乱を起こす漢人」を指したことが初出と考えられている[6][7]

清朝では支配の中心であった満州族を除く民族が漢として意識されるようになった。これが「漢」という言葉で明確に民族を括ることの始まりであり[8]、清朝の役人は「少数民族を扇動し、清朝に反乱を起こさせる漢人」と規定していた。

最初は漢と満州族は対立する概念であったが、帝国主義列強の影響が増した19世紀から満州族も漢に含まれるようになる[9]
日中戦争における「漢奸」

日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた[10][注釈 2]。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し、日本を一番知っていた?介石や、対日戦略を立てていた何応欽楊杰熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある[10]
日中戦争中の「漢奸狩り」

国民政府側の指導者である?介石自軍日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦GPUによる殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した[13]

国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者[注釈 3]などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた[15][16]。また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった[17]。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追及するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された[18]晒し首を入れる箱[19]

上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000人に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた[20]。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた[20]。上海南陶では1人の目撃者によって確認されただけでも100名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[21]
南京における「漢奸狩り」

日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されている[10]ほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。

戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び[22]、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約2,000名に達し、多くは日本留学生であった[10](当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている[23])。

『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している[10]

南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず[24]、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された[10]。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた[23]

1937年12月8日、中国軍は市民の暴動を恐れて少しでも怪しいところがあれば銃殺し、処刑されたものは100名を超えたと中国紙が報じた[25]

南京戦直前(1937年(昭和12年)12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった[26]。南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された[1]

中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[27]。なお11月までの「漢奸狩り」で嫌疑をかけられた市民2,000名、12月初旬には連日殺害された[28]
日中戦争後

元日本人の伊達順之助、満洲族(女真族)の川島芳子や蒙古族の徳王といった人々も「漢奸」とされ、また女優・歌手の李香蘭(山口淑子)が「漢奸」の疑いで訴追[注釈 4]された。戦争中、通敵・売国行為をおこなった人物だけでなく大東亜共栄圏に共感した人物についても「漢奸」と呼んだ。

川島芳子の裁判では、検察側はスパイの具体的な証拠を何一つあげられなかったが、村松梢風の小説『男装の麗人』などの小説や根拠不明の流説などをもとに[要出典]死刑判決を下し、1948年(昭和23年)に銃殺刑を執行した。


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