この項目では、1945年のアメリカ軍による航空攻撃について説明しています。1939年の中国軍による航空攻撃については「漢口空襲 (1939年10月)」をご覧ください。
漢口大空襲
中国を拠点としたB-29爆撃機による作戦行動結果。漢口(Hankow)に対する爆撃も記載されている。
戦争:太平洋戦争・日中戦争
年月日:1944年12月18日
場所: 中華民国 湖北省漢口市(現武漢市の一部)
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国
中華民国(汪兆銘政権) アメリカ合衆国
指導者・指揮官
青木喬カーチス・ルメイ
クレア・リー・シェンノート
戦力
航空機 約50航空機 約280
損害
航空機 23失
市街地の50%が焼失航空機 6失(日本側主張)
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧
1937-1939年
北支(盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル) - 上海 (大山事件 - 上海爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘 - 黄河決壊) - 武漢 (万家嶺 - 長沙大火) - 広東 - 南昌 - 襄東 - ?湘
漢口大空襲(かんこうだいくうしゅう)は、太平洋戦争・日中戦争後期の1944年12月17日に、アメリカ陸軍航空軍が日本勢力下の漢口(現武漢市の一部)に対して行った航空攻撃である。戦闘の結果、日本陸軍の防空戦闘機隊は大きな損害を受け、漢口の市街地の半分が焼失した。アメリカ軍がB-29爆撃機と焼夷弾(ナパーム弾のM69焼夷弾 [1])による大規模な都市爆撃を行った最初の事例であり、その後の日本本土空襲において焼夷弾を使った絨毯爆撃戦術を導入する参考にもなった。 日中戦争で中国各地を占領した日本軍は、太平洋戦争開始後も中国戦線で多くの重要都市を勢力下に置いていた。漢口も日本軍に占領され、1944年(昭和19年)当時は汪兆銘政権の湖北省の省轄市として統治されていた。 太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)、アメリカ陸軍航空軍は中国戦線を担当する第14空軍(司令官:クレア・リー・シェンノート中将)を編成し、同年11月に新竹空襲を成功させるなど中国戦線での対日航空作戦を本格化させた。さらに、アメリカ軍は、最新鋭の長距離爆撃機であるB-29爆撃機を中国に配備して日本本土を攻撃することを計画し(マッターホルン作戦)、B-29爆撃機装備の第20爆撃集団を第20空軍下に新編するとともに、成都近郊に大規模な航空基地を建設した。第20爆撃集団所属のB-29爆撃機は、1944年(昭和19年)6月の八幡空襲を手始めに日本本土などに対する戦略爆撃に着手した。その攻撃は、九州北部のほか、中国北部や台湾、満州にも及んだ。ただ、第20爆撃集団の使用する燃料弾薬などの物資は、イギリス領インドからハンプ越え
背景1944年10月18日、台湾を空襲する第468爆撃群所属のB-29爆撃機。
中国戦線での航空戦